進化論的暴露論法についての「まとめ」

私は以前は、功利主義の問題を考えていたのだが、どうもそうじゃないんじゃないのか、と思い始めている。つまり、功利主義ではなく

  • 進化論的暴露論法

こそが真の問題なんじゃないのか、と。つまり、いわゆる功利主義者が問題にしているのは、功利主義ではなく、「進化論的暴露論法」だったのではないか、と。
しかし、そう考えたとき、いろいろと今までの議論が「混乱」してきた印象を受けるわけで、ここでいったん、それらをまとめておく必要があるのかな、と思っている。
前回までの議論で、「進化論的暴露論法」が何を主張しているのかについては書かせてもらった。そこにおいては、「直観」「感情」は進化論的に人間の傾向性として存在するものだから、その「命令」のままに生きようというのはダメ。しかし、だからといって人間の全ての行動がダメじゃない。その問題をまぬがれているのが推論だ、という論理展開になっていた。
まあ、功利主義者の言い分としては、この立て付けによって、カント主義や直感的道徳主義はダメだが、功利主義はその隘路をまぬがれている、という主張だったわけだがw、しかし私たちは別に、功利主義者ではないのだから、そういった「党派的」な議論に付き合う必要はない。
ここで問われているのは、直観であれ感情であれ、なんらかの「推論」を介さずに行われる行為は、いわば「脊髄反射」なんだからダメだ、というわけである。
しかし、こういった議論の整理が、そこまで不自然だとは思わないわけである。なんらかの「ルール」に従って、

  • チェック

を行うことによって、その「決定」が「合理的」であることを示さなければならない。つまり、直観であり感情であり、それを「検証」する「推論」をメタ的に行わなければ正当化できない、と言うなら、それほど不自然ではない、と考えるからである。
しかし、である。
ここにパラドックスが生まれる。つまり、なぜ人は「推論」をするのか。つまり、

  • 「推論」の欲望

がここでは問われていないのだ。なぜ人は「功利主義計算」を行うのか? なんらかの、それを行いたいという欲望に促されて、ではないのか? つまり、ここにおいて、まったく違ったベクトルからの考察が求められているわけで、それこそ、

  • 人生の目的

となる。私たちは、ある人生の目的に対して生きている。なにかの人生の目的があるから、それに向かって、「計算」をしたり、感情がかきたてられたりする。しかし、普段、私たちはその人生の目的を自分が「分かっている」と思っていない。ここから、なにが言えるのかというと

  • 私たちは、生まれてから死ぬまで、その「人生の目的」を探して生きている

というわけである。これを東洋的な概念で言えば「道」ということになるであろう。そして「徳」も、この延長において考えられている。
私たちは日々の日常において、なんらかの「きざし」を探している。つまり、それが「人生の目的」につながるのではないか、という「きざし」を探して。そして、そういったものではないかと思われるものを探知すると、途端に、多くの「関心」をかきたてられ、「計算」を始める。その結果として、大きな「人生の目的」の正体の解明のための満足をえることになるかもしれないし、そうでないかもしれないが、いずれにしろ、大事なポイントは、この「探究」過程は、終わらない、ということなのだ。
終わらないのに、なぜ続けるのか、と思うかもしれない。それは終わらないということが、それぞれの結果において、一定の満足をもたらさないということを意味しているわけではない、というところにある。まあ、だから「道」と言っているわけである。
しかし、ここで一つの疑問がわいてくるかもしれない。つまり、上記における「功利主義」との関係だ。
人生の目的とは、そもそも「私的」なものである。それに対して、功利主義は、安藤馨先生に言わせれば、「統治功利主義」つまり、公共政策において、最初に考察されるべきものなのであって、そもそも「公的」なものと考えるべきだ、ということになる。だとするなら、この二つの関係はどうなっているのか、ということになるであろう。
例えば、リチャード・ローティは、彼のリベラリズム構想において、公私の区別を重要視する。しかし、進化論的暴露論法の立場からすれば、リチャード・ローティが重要視した、「共感」の感情は、「直観」であり「感情」であり、「推論」ではないという時点で、そもそも「斥けられなければならない」対象に分類されてしまう。
このことをどう考えたらいいのか?
まず、「人生の目的」という観点から言うなら、あらゆる対象は「私的」だということになる。その意味は、「人生の目的」は絶対に私的にしかありえないからだ。じゃあ、公共的功利主義であるといったような、「公的」なものとはなんなのか、ということになる。それは、

  • 公的 ⊆ 私的

という関係であらわされる。公的とは私的の一部であり、この二つは一致しない。あくまでも、公的とは、私的な活動の中の一部分を指しているに過ぎない。
なぜそうなのか?
それは、先ほどから注目している、「人生の目的」に関係している。私たちはたんに「公的」だから、その「計算」をするわけではない。私たちが、わざわざ「計算」をするのは、その計算が、なんらかの自分にとっての「人生の目的」に

  • 関係

しているんじゃないのかと気になって、やりたくなるからだ、というわけである。つまり、そういった私たちが「計算したくなる」多くの集合の中に、公的な計算が含まれる、という関係だというわけである。
では、公的な計算とは、どういったものなのかを分類してみると、おおよそ、二つに分けられる。

前者は、今の日本国憲法を思い出してもらえばいい。幸福追及権にしても、法の下の平等にしても、なんらかの「制度的平等」によって、人々を「公平」で「平等」に「扱おう」という動機の下に行われる計算だ、ということになる。
他方、後者は必ずしも「公平」や「平等」を要求しない。こちらは、「帰結主義」と呼ばれるように、「結果」として、人々の幸福が「最大」になればいい、と言っているだけで、それがどういった「分布」において実現されなければならないのかを求めていない。極端に言えば、大量の貧乏人がいても、大量のお金持ちがいれば、そのお金持ちたちの「幸せ」の量によっては、貧乏人がどんなに苦しんでいても、「総量」で上回れば

  • よりまし

とは言いうる、というわけであるw
このことから、なぜ「功利主義」が「リベラリズム」と関係して論じられてきたのかが分かるであろう。リベラリズムとは、そもそも

  • 左翼ではない

という定義である。左翼のような「平等」を求めないにもかかわらず、なんらかの「公正さ」を主張するのがリベラリズムなのであって、その正当化の理屈として、功利主義が利用される。リベラリズムは、貧富の差の是正を求めない。それは、どんなに貧乏な人たちが世界に溢れていても、功利主義的な意味での「幸福の最大化」を富裕層たちの「無限の幸福の追及」によって上回ればいい、と考えているからだ。
つまり、そこにおいては、富裕層がどうやって貧乏人と接触しないですませられるか、といった「功利」も考えられる。リチャード・ローティ流に言えば、もしも富裕層が貧乏人と「出会った」ら、彼らに「共感」してしまうために、自分の感情が「なえて」しまって、

  • 不幸

になってしまい、必然的に彼らを「救済」しなければならない、ということになる。だったら、最初から、ゲーテッド・コミュニティにして、彼ら富裕層が生まれてから死ぬまで、一切、貧乏人と関わらなければいい、ということになるであろう。
同じことは、貧乏人にも言える。彼らが一生、お金持ちに出会わなければ、彼らはお金持ちに「嫉妬」することもなく、比較的、「幸福感」に満たされて生涯を終えるかもしれない。
このことは一見すると、幸福の「最大化」と矛盾しているように聞こえるかもしれない。しかし、もしもお金持ちたちの「幸福」と貧乏人たちの「幸福」が

  • (確率論的な意味で)独立でない

ならば、「どちら」の幸福を優先すべきなのか、という「計算」の話になる。もしも、お金持ちたちの「幸福」を優先した方が、貧乏人の幸福を増やすことにこだわるより「効率的」ならば、そちらを「優先すべき」というのが、功利主義の命題なのだ。
ここには一見すると、直感的には納得できない人もいるかもしれない。
しかし、次のようなことを功利主義者は言う。ある、大虐殺を行った人がいるとする。そして、その人に家族を殺された人がいるとして、功利主義は、

  • 大虐殺を行った人の「幸福」の最大化

を提案するw なぜなら、そういった大虐殺を行った人は、きっと、人生の不幸なおいたちのために、性格がゆがんでしまったんだから

  • かわいそう

と考える、というわけであるw そこから、功利主義者は、そういった「悪を楽しむ」人の「幸福」の最大化さえ「計算」を始める。つまり、そっちの「最大化」の方が「効率的」ならば、人間は大虐殺されることでさえ

  • しかたがない

というわけであるw
大虐殺を行われて、家族を失った人に対して、例えば、その「記憶」を削除する手術をすれば、その人は、余計なことを残りの人生で悩まなくてすむのだから「より幸福」だというわけであろうw
対して、大虐殺をした人は、この人が虐殺をしたことによって、傷つくことになった人たちから「隔離」をすれば、そういった相手から「復讐」をされることをまぬがれるのだから、「ハッピー」だというわけであるw
実際、功利主義に親近感をもつ人は、「この日本には貧乏人はいない」と言う。実際、アフリカの子どものように飢えて死んでいる人がいないんだから、

  • みんな幸せじゃん

と言うわけである。そこで、日本人に福祉は不要だとなる。福祉が必要なのは、唯一アフリカで飢えて死にそうな人たちや、今も戦争をやっている一部の紛争地域だというわけで、そういった地球の裏側の「救済」には熱心だが、自分の身の回りの低学歴層をあえいでいる、多くの「日本人」には驚くほどに冷淡だ、という傾向がある。
こういった形で、功利主義は昔から、さまざまな批判があるわけだがw、大事なことは、功利主義リベラリズムと繋がったものとして語られることによって

の方向での、ブルジョア道徳の可能性を彼らは「正当化」できる、という野望を抱いているわけである。左翼はどうしても、各個人の「資産」の公平性を求める。それは、必然的にお金持ちへの「累進課税」を深めることになる。しかし、それをどうしても受け入れられないブルジョア階級は、どうやって貧乏人たちをだまくらかすのかの「レトリック」に秀でていくことになる。口先で、貧乏人という「頭の悪い(=お金がなくて、十分な栄養が頭に回っていない)」人たちを、嘘とハッタリで、だましていく。この「能力」が、現代のブルジョア階級のパトロンとなり、糊口をしのいでいく「インテリ」の世渡り術だというわけであるw
議論を最初に戻そう。功利主義でもなんでもいいが、そういった「計算」を人々が始めるということは、その人は、なんらかの「計算」を行う動機をもっている、ということを意味する。というか、もっていなくてもいい。とにかく、

  • 探している

ということなのだ。「人生の目的」を探して、その「きざし」のような見えるか見えないかの合間で、私たちは「計算」を動機づけられる。もしかしたら、自分の「人生の目的」がその計算によって、見つけられるかもしれないと思うだけで、私たちはその計算を「欲望」する。つまり、ここで最初に戻るわけである。
進化論的暴露論法によれば、「直観」や「感情」は、進化論的な根拠をもった人間の「脊髄反射」行動である限り、「理性的でない」と判断せざるをえない。しかし、あらゆる「計算」は、そもそも、なんらかの「直観」や「感情」なしには始まらない。つまり、純粋な推論はないし、私たちはそういった

  • 中途半端な「仮説的な目標」の断片(フラグメント)に促されて「推論」をしている

に過ぎない。つまり、どこにも「純粋な推論」なんてないのだ。すべての「推論」は、必ずそのトリガーに、

  • 中途半端な「直観」や「感情」に媒介された「推論」のフラグメント

をまとわりつかせている。しかし、たとえそうだったとしても、そういった膨大な「推論の束」が、私たちに、ある「気付き」を与えてくれるときがある。私たちは「推論」を記憶する。その諸関係が、この世界のグランドデザインについての気付きをもたらしてくれる。そういった意味でも、進化論的暴露論法は人間という存在の奥深さを見失わさせる、底の浅い考えだと言わざるをえないのであろう...。