ルソーの「一般意志」とは何を言っているのか?

ルソーの「社会契約論」は、彼独自の文学的な韜晦な表現が多く、よく意味が読み取れない文章になっている。しかし、丁寧に読んでいくと、彼なりに言いたいことを述べている、という印象を受けてくる。
そもそも「一般意志」というのは、それ以前からかなり使われていた用語のようで、例えば、ラプニッツはまさに、ここでルソーが議論をしているのとまったく反対の意味で、一般意志と全体意志について論じているわけで、そう考えるなら、ルソーはそのライプニッツの議論にインスピレーションされて、この話を思い付いたんだろうな、と私なんかは思っているのだが、有識者でそういうことを言っているのかよく分からない。
ルソーのこの議論が難解になるのも当然で、すでにそれ以前に、ホッブズジョン・ロックによる社会契約の話があったわけで、それについての当然、ルソーは読んで「意識」して書いていることは間違いないわけだから、なんとも唐突な文章が次々と並んでいる印象を受けるのは、そういった「文脈」を意識している、というわけで、最初から意味が読みとりにくいのは、ある意味、当然なのだ。

すべての社会のうちでもっとも古い社会は家族であり、これだけが自然なものである、ところで子供たちが父親との絆を維持するのは、生存するために父親が必要なあいだだけである、父親の保護が不要になれば、この自然の絆は解消される。子供たちは父親に服従する義務を解かれ、父親は子供たちを世話する義務を解かれる。こうして父親も子供たちも独立した存在に戻るのである。もしそのあとでも親子の絆が保たれるとすれば、それは自然な結びつきによるものではない。両者が結びつきを望んだためである。だから家族そのものも、合意のもとでしか維持されないのである。
そもそも親子ともに自由な存在なのであり、この自由は人間の本性によって生まれたものである。人間の社会の最初の掟は、みずからの生存のために努力することであり、最初の配慮は自己にたいする配慮である。そして理性を行使できる年齢になれば、誰もが自分の生存にふさわしい手段について、みずから判断するようになる。こうして人間は自分の主人となるのである。

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

ルソーの「社会契約論」の最初の文章であるが、そこで「家族」の話が書いてある。ここを見ると、最初の書き出しは「家族はこの社会の基本的な構成要素」であり父親による子供の「強制」が正当化されているのに、次の段落の最初で、自由が「人間の本性」であるということから語り始めているわけで、ルソー自身もその二つが矛盾していることを認めている。
じゃあ、どっちの原理がこの社会の根本原理なのか、ということになるわけだが、ルソーはその議論はあえてぼかして、これ以降は、後者の自由という人間の本性の話から、彼の言う「社会契約」が生まれていく理屈を説明していく。
そう考えると、ここでの「家族」の話をわざわざ述べていることは、どこか異様な感じがしてくる。なぜルソーは、家族の話をここでしているのか?
ここでルソーが「家族」における、父親の子供への「強制」は、現代的な意味においては、そんな「権利」が父親にあるはずがない、ということになるだろう。それは、ドメスティック・バイオレンスの問題がさかんに議論されるようになった現代の権利意識からは、少し異様な印象を受ける。
そう考えると、そもそも社会契約論からは「家族」の存在は導けない、ということになる。もしも産まれたばかりの子供の両親が亡くなり、親戚もいないとなったら、その子供は

  • 国家

が育てるということになる。なぜなら、それが、その子供と国家の「社会契約」だからであり、そのことを私たちは不思議だとも思っていない。つまり、社会契約論の視点から見れば、そもそも、最初から

  • 家族

という概念がそこにはないのだ。このことは、現代の日本社会を考えるとき、示唆的であろう。ある老人が子供も親戚もいないが、一人では日々の生活もままならない病気になったとき、国家はその人に対して

  • なにもしない

というわけにはいかない。最低限の治療なり、看病なりを行うことになる。それが「介護」であり、国家はこの「負担」を嫌がり、子供は親の世話を「すべき」と言うわけだが、そもそも、その病人には「人権」があるのだから、子供が何をしようが、勝手に国家は、その病人の「基本的人権」を守らなければならない。
しかし、このことは少し、ルソーの言う「社会契約論」の性格を理解するためには、示唆的だと思われる。一方で、「社会契約」がどういったものなのかを述べていく

  • 裏側

でルソーは、この社会契約が

  • なにによって支えられているのか

といったような、暗黙の前提のような議論をしているわけで、かなりうさんくさいわけである。

ところで政治体または主権者は、社会契約が神聖なものとして尊重されるかぎりで存在するのだから、最初の行為[としての社会契約]に背くようなことは、みずからに義務づけることも、他の団体にたいして義務として負うこともできない。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

そもそも、ルソーにとって社会契約とはどういったものなのかを、これから説明を始める最初の段階で、ルソーは国家は

  • 神聖

なんだ、ということを語る。ある意味において、ここに全てが込められている、と言ってもいい。もしも神聖なら、この国家に逆らうことは「ありえない」ということになるであろう。ルソーの議論はトートロジーである。神聖だから、社会契約による義務は守らなければならないし、社会契約を行わなければならないから神聖だ、と。

というのは国家の内部では、社会契約がすべての権利の基礎となるために、国家は社会契約のおかげでそのすべての成員の財産を自由に処理することができるのだが、外国にたいしては、自国の個人からひきついだ、最初に占有した者の権利に基づく権利しか主張できないあらである。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

市民が国家に提供のできるすべての奉仕は、国家がそれを求めたときに、市民は直ちに提供しなければならない。しかし主権者の側としても、共同体にとって無用な拘束を、国民に求めることはできない。主権者はそれを望むことすらできないのである。というのは自然の法則と同じように理性の法則においても、原因なしには何ごとも起こらないからである。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約は、契約の当事者の生命の保存を目的とするものである。目的を達成することを望む者は、そのための手段も望む。この手段には、ある程度の危険はつきものであり、さらにある程度の損害もつきものである。他人を犠牲にしても自分の生命を守ってもらおうとする者は、必要な場合には他人のために自分の生命を与えねばならない。法が市民に生命を危険にさらすことを求めるとき、市民はその危険についてあれこれ判断することはできない。だから統治者が市民に、「汝は国家のために死なねばならなぬ」と言うときには、市民は死ななければならないのである。なぜならこのことを条件としてのみ、市民はそれまで安全に生きてこれたからである。市民の生命はたんに自然の恵みであるだけではなく、国家からの条件つきの贈物だったからである。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

ルソーにとって、なぜ国家が「神聖」なのかといえば、国家は国民の生殺与奪を握っているし、実際にその権利を行使するから、と言うしかない。国家は国民の財産を自由に奪うし、国家は国民を自由に殺す。国家はいつでも、国民の財産を国家の権利の下で奪うことができるし、国民を徴兵して、戦場の最前線に立つことを強制して、殺すことができる。
じゃあ、なんで国民は国家のそのような強制に「従わなければならない」とルソーが考えているのかというと、そこにはなんらかの

  • 契約

があるからなんだ、と言うわけである。例えばルソーは以下のように言う。

次に一般意志は、それが真の意味で一般的なものであるためには、その本質が一般的であるとともに、その対象も一般的でなければならない。そして一般意志はすべての人に適用されるものであるから、すべての人から生まれたものでなければならない。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

しかし、どう読んでも、これはトートロジーだ。一般的なものは、一般的でなければならない。だからなんで、そういった「一般的」なものをここで仮構できるのか、と問うているのに、そのことについては見事なまでに答えをスルーする。ということは、どういうことかというと、この「一般意志」というのは、そもそもその存在を証明する対象ではない。私たちは一度もこの契約を行っていないけれど、実は、形而上学的な意味では、そういった契約があった、として扱わなければならない、と。
私たちは産まれる前から、父親の「強制」には従わなければならないように、ある「社会契約」には従わなければならない。ルソーはそのことと、個人の「自由」は両立している、と考える。
じゃあ、ここでルソーが言っている「社会契約」とはなんなのかといえば、まあ、「保守主義」的な言葉を使えば

  • 伝統

  • 文化

といったものになる、というわけである。

主権者に、首長の命令に反対する自由が与えられていて、あえてこの[首長の]命令に反対しないときには、それは一般意志として通用するのである。全体が沈黙しているとき、人民は同意しているものとみなされるだろう。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

ルソーに言わせれば、国民が反対しない限り、それは「一般意志」ということになる。ということは、過去から続いてきた「伝統」や「文化」とは、「一般意志」なのだ。そうあるということが、そう「望んでいる」ということを意味する、と。そう考えるなら、奴隷ですら「文化」として「一般意志」として正当化されるのだろう。
ここでもう一度、最初の議論に戻ろう。ルソーは最初に「家族」の議論から始めた。そして、社会契約は「神聖」だと言ったように、国家の「宗教」性を最初から認めている。ルソーの議論の本質は、私たちが社会契約を行うことにあるのではなく、

  • 私たちが産まれたときには、すでに「社会契約」を行っていて、その社会契約を守ることを「当然」だと思っている

ということを、まさに

  • 当たり前

のこととして議論をしているのであって、そういう意味では最初から、国家が国民からの「信託」に答えないケースについて考えていない。

人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。しかし人々が徒党を組み、この部分的な結社が[政治体という]大きな結社を犠牲にするときには、こうした結社のそれぞれの意志は、結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる。その場合には、成員の数だけの投票が行われるのではなく、結社の数だけの投票が行われるにすぎないのである。
社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

この引用がルソーの「一般意志」の特徴を考えるときに一番重要なところだと思っている。ルソーの一般意志は、「社会契約」ではないのだ。むしろ、私たち国民は、そういった社会契約を行った、はるか太古の「祖先」が、未来のこの国家の存続のために作った「ロボット」に近いと言えるのかもしれない。これらのロボットは別に、今の国家と「社会契約」をわざわざ結ばないが、このロボットを作った太古の祖先は、その「社会契約」に関わって、そこでの「契約」を守るように、ロボットをプログラムしている。だから、このロボットがその命令に従うのは

  • 当たり前

だし、だから一般意志は「常に正しい」ということになるw
上記の引用を見てもらうと分かるように、ルソーは国家の中のある「結社」の中では

  • その結社の中の一般意志がある

という議論をしているw ここは重要なポイントで、そもそも一般意志は、国家に限られない概念なのだ。しかし、国家は自ら以外の「社会契約」を認めないw なぜなら、先ほどから言っているように、国家は

  • 宗教

だからなのだ! ジョン・ロックの社会契約は、そもそも、王権神授説に反対するために書かれた論文であるが、ルソーにとっては最初から、国家が「宗教」であることは必然だった。そもそも、社会契約は「宗教行為」なのだから、それは「自由」ではない。宗教の信者が、聖書が求める「義務」に従うのは当たり前であるように、信者は教祖に従属する。しかし、それはだからこそ

  • 自由(=本当の自由ではないが、「宗教的」な意味で、自由人がもちうるような「人間的な尊厳」が神に従属することによって得られる)

というレトリックになっているのであって、そもそもこれは最初から「自由」な社会の話ではないのだ...。