後藤雄太『存在肯定の倫理1 ニヒリズムからの問い』

いわゆる自称「哲学者」さんが言っていることをよく聞いてみると、みんな「同じ」ことを言っていることに気付く。このことは、驚くべき事実なわけであって、ようするに、みんな「同じ」ことを、同じ教科書を読んで学んだので、似通ってしまった、ということなのだ。
同じ教科書だから、そこから外れれば、教師に馬鹿にされるわけだし、テストの点数もよくなくなる。そうすれば、当然、嘲笑する場面も似てくるわけで、まあ、これを金太郎飴と言う。まさに、

  • 哲学者のフラット革命

というわけで、だったら世の中に哲学者なんて一人で十分なんじゃないのか、と思ったりする。
ここで言っている「似通ってくる」とは誰に似るのか、というわけであるが、言うまでもなく、ニーチェである。それはある意味当然で、ハイデガーでさえ、ニーチェ研究をやっているわけで、まあ、ハイデガー研究者は必然的に、ニーチェ研究者となるわけで、つまりは、実質的なニーチェ主義なのだ。
ハイデガーを理解していると言うためには、ニーチェを理解していると言えなければならないわけで、必然的に、ニーチェの杓子定規な理解を求められる。ニーチェ理解を「間違えている」時点で、ハイデガー研究者コミュニティでハブられる最低限の前提なわけで、つまりは、ハイデガー流のニーチェということになるのであろう。
掲題の本でも指摘されているように、そもそも、ニヒリズムとはキリスト教に反対する側にはられていたレッテルであった。ところがそれをニーチェが反転させたわけで、つまりニーチェの言うニヒリストはむしろ、キリスト教徒のことを言う言葉に変わったわけで、私はその時点で、この言葉を疑うわけである。
つまり、ニヒリズムとは一種のバズワードなわけで、どんどんと形式的に反転していく。まあ、なんとでも言えるわけで、そういった性格としてはニーチェの主張もそんな性格を感じさせられる。

しかし一方、以上のような支配への意志を持った究極的主体としての超人像とは全く異なったニヒリズム超克者イメージも、ニーチェの文章のなかには散りばめられていることに私たちは気付く。それは例えば、『ツァラトゥストラはこう言った』に描かれる<子ども>である。

子どもは無垢であり、忘却である。そしてひとつの新しい始まりである。ひとつの遊戯(Spiel)である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。(Z.25)

この<子ども>とは、いわゆる「三態の変化」のなかの最終形態である。すなわち、第一段階は、「汝なすべし」という義務を背負っている「駱駝」であり、第二段階は、義務の観念に抗し「我は欲する」と叫ぶ、自由の精神を持つ「獅子」である。そして最後が、遊戯する<子ども>というわけである。

ニーチェは、「三態の変化」において、駱駝、獅子の最後に「子ども」を置く。これは、ある種の人間の「成長」に対応している。大事なポイントは子どもが最後だ、というところにある。人間は子どもの段階を経て大人になる。言うまでもなく、子どもは一人では生きられない。だれか、周りの人に育ててもらって、大きくなる。しかし、そうして大人になった人間は、最後にまた、「子ども」に戻る。それが「ケア」の思想である。
老人は、次第に記憶をなくし、自分が誰なのかさえ、おぼつかなくなる。体も動かなくなっていき、医者からも見放される。しかし、たとえそうなったとしても、彼らには「基本的人権」がある。つまり、だれかが育てなければならないわけで、まさに、その関係は「子ども」と同じだと言えるだろう。
ところが、多くの場合、こういった「子ども」の段階を社会はグランドデザインに描いていない。つまり、これが人間の「最終」段階であることに、正面から向かい合わない。なぜなら、その姿が、あまりにみじめに思われるからだ。人間は、だれかの役に立つことで、始めて立派だと思われている。そこから考えたとき、なにもできず、ベッドで寝ている状態は、どうしても目をそむけたくなる、受け入れたくない現実なのだ。
そこから、「自殺」の思想が始まる。自殺の思想は、反福祉の思想である。この恐しい思想は、人間を駱駝、獅子の段階までしか認めず、そこから「子ども」への段階に進もうとするとき、「自殺」を思い描く。もしも自分が国家に迷惑をかけるくらいなら、自殺をさせてくれ。殺してくれ、安楽死をさせてくれ、というわけである。
しかし、人間の本質は、むしろ「三態の変化」の最終段階である、「子ども」の段階にこそある、と言うべきであろう。この段階を認められない哲学者は、一見、ニーチェ思想を標榜しながら、結局のところ言っていることは、

  • 駱駝・獅子の思想

にすぎず、

  • 子どもの思想

の段階にまで進めていないという意味で、ニーチェの本質には辿り着けなかったのだ。

すなわち、ニーチェは、円環時間をキリスト教的リニア時間に反定立することによって、未来の目的(救済)への隷属から<今ここ>という瞬間を解放せんとしたのである。彼の思想全体から見ても、彼が瞬間を重視していることは明らかである。

私たちが「なんのために生きるのか」と問うとき、そこには、ある種の「救済」が想定されている。つまり、その「目的」は今は実現できていないけれど、いずれは「かなう」のだ、と。しかし、そういった問いは、ある一つのことを見逃している。つまり、その一瞬において、すべては満たされているのではないのか、という疑いである。
なぜ「未来」がでてくるのか。今の私たちに未来は関係ないのではないか。未来とは一種のユートピアである。それは、今の不満を昇華するために設定される、架空の何かであって、現実ではない。

その点においては、彼らもギリシャ哲学の正統に属する。しかし、彼らは存在に対し「何であるか」(ティ・エスティン)と問うてしまったのである。存在に対して「何であるか」と問うとき、その問いかけは。、すでに「何-存在」すなわち本質存在にのみ向けられているような、形而上学的な問いかけなのである。その問いかけは、すでに一定の存在に対する態度を前提としているのであり、可能な答えの範囲と答えの出される仕方をすでに規定してしまっている。存在に対して「何であるか」と問う時点で、すでに存在は忘却されてしまうのである。存在忘却とは、形而上学が単に存在を無視しているということではない。形而上学がまさしく存在を一定の仕方で理解し規定したがゆえにこそ、存在忘却は生じたのである。つまり、本質存在にのみ心奪われることによって、本質存在・事実存在未分の単純で端的な存在すなわちピュシスを見失ったのである。
さらに、このような本質存在の優位こそが、存在者の優先を導いたとハイデガーは主張する。

何-存在は、それがまさしく存在とみなされるところでは、存在者が何であるかという点への注視を優先し、こうしてひとつの独特な存在者優先を可能にする。(NII.411)

本質存在のみが存在としてみなされるということは、要するに、「存在そのものは隠れる」という契機が見逃され、「存在が存在者を顕にする」という契機しか把握されないということである。形而上学において存在者のみが優先されるというのは、そういった事態を指している。形而上学が「存在とは何か」と問うているつもりでも、実のところ、その問いにおいて問われている存在とは「存在者」のことなのであり、存在そのもの、すなわちピュシスは、もはや問われていないのである。

ハイデガーの言う「存在」と「存在者」の関係は、カントの「物自体」と科学における「モデル」の関係で考えることができる。知覚を通して解釈される世界は、すでにそう解釈されている時点で、世界が実際にはなんなのかとは違ったものであることを宿命づけられている。では、その世界そのものとはなんなのかと問うなら、カントでいえばそれは「物自体」と言うしかない。これがカントの観念論なのであって、そもそもカントは幻想と知覚を区別しない。それは人間の有限性に関係しているわけで、科学はそういった人間の限界を、科学者集団の「多様性」によって比較的に安全なものにしようとしている。言語は対象のある特徴をモデル化する。しかし、それはその対象のある特徴を強調して、極端化させた解釈にすぎない。しかし、そうであるからこそ、ある特徴が明示化される。
だとするなら、ここでハイデガーが言いたいこととはなんなのだろう? 古代ギリシアの哲学者の自然哲学においては、上記のような観念論と科学の関係は意識されていなかった。そういう意味では、素朴実在論で考えていた。それをハイデガーは反転して解釈しているわけで、むしろ、古代ギリシアの方が本質を分かっていた、と主張する。しかし、そうなのだろうか? こういったレトリックは、ニーチェニヒリズムの意味を反転させたのに似ている。つまり、自らの主張の重大さを強調するために、極端から極端にふれている。そのため、実際の説得力が失われている。

子どもは、単に「友だちと仲良くしなさい」と大人が言うから、いっしょに遊んでいるわけではないだろう。子どもの奥底に宿っている<野生>を、そんなお説教で本当に魅くことはできないはずである。

人間には確かに、勝手に内側からわいてくる力がある。そしてそれが、私たちを導いてくれることもあるのであろう。しかしそのことが、一人一人が今を生きる「意味」を考えることを無意味にするだろうか? 生きる意味や生きる目的とは、別に、普遍的な、だれにでも適用できるようなことを言っているわけではない。だれでも、一人一人のコンテクストがあり、その中で、ずっと

  • 模索

し続けている何かなのではないか。これは絶対に辿り着けないけれど、探すことを止められない。そういった性質のものなのではないか。もっと言えば、今この瞬間を生きることの価値は、こういった探究を行うこと自体にさえあると言ってもいいはずだ。なぜ「どちらか」なのか? なぜ「どちらも」ではダメなのか? 生きることは道である。つまり、絶えず、その道の先を模索し続けることしかできず、結局は、そういったあがきの一つ一つが人生なのだ。結局は目的を見つけられない。つまりは、辿り着かなかったのかもしれないけれど、最後まで探し続けたことには変わらない。

繰り返しになるが、自分が生きて在ることそのものへの肯定感、歓びを持たない人間が、どうして遠い未来の人間の生を気にかけ、生きる歓びを贈与する動機が持てるだろうか? 人生そのものに疲れている人間、「こんな世界は滅びるべきだ」と内心思っている人間が、遠い国の人々の生の悲惨に関心を持つだろうか? ましてや、徳ある人、正義の人になどになるであろうか?

こういった言い方に私は大きな違和感を覚える。誰でも、人生を投げ出したいと思うときはあるんじゃないのか。自暴自棄になることもある。でも、そういった時期を乗り越えて、前に進むのであって、なぜ、全肯定できてない奴は生きている資格がない、みたいなことを言うのか。
結局、私たちはニーチェが言ったように、人生の最後には「子ども」に戻る。しかし、それは本当の子どもではない。その老人の体には「過去」が刻まれている。どんなに痴呆症が進んだとしても、長い間、一緒に寝食を共にしてきた伴侶の呼び掛けにはよく反応したりする。そこには、「歴史」がある。そういった一つ一つを無駄なノイズとして捨て去る行為が、物事を単純化し、人間をフラットな存在に還元しようとする、管理社会側の野望なわけであろう...。

存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い

存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い