中村修也『天智朝の東アジア』

小池都知事の、東京大震災における、朝鮮人大虐殺についての追悼文の拒否は、その拒否の理由が示しているように非常に深刻な事態だと言えるだろう。それは、朝鮮人学校への補助金の拒否の問題とも関係して、深刻な右寄りの政治家の蛮行と言わざるをえない。
こういった政治家の台頭に、近年のネトウヨによる、いわゆる「嫌韓」と呼ばれる傾向があるわけだが、彼ら政治家がこういった勢力に阿っていることは明らかなわけで、なかなか根深い問題を感じる。
しかし、私が最も重要だと思っていることは、いわゆる日本の

  • 歴史

なるものが、正確に記述してこなかったからなのではないのか、という疑いを拭えない。つまり、歴史は本当に真実と向き合ってきたのかが疑わしいわけである。
例えば、日本書紀というものがある。これは一体なんなのか? そのことについて、ほとんどの日本人は向き合っていない。ここで「書かれている」ということが、一体何を意味しているのか。私たちはもう少し、この問題に正面から向き合わなければならないのではないか。
そもそも、なぜ日本書紀は書かれたのだろう。というか、なぜこのようなものが突然変異のように、この日本で、この時期に生まれて、今にまで残されているのだろう? よく考えてほしい。それまでの日本には、こんなものはなかった。というか、こんな

  • しっかりした

ものはなかった。あったとしても、散文的な書きちらかしたメモのようなものに過ぎなかった。あまりにも「スケール」が違いすぎるわけである。
なにかがおかしい。というか、なぜ人々はこの「異常」さについて言及しないのか。
うーん。
これをもしも一言で言おうとするなら、戦前から続く、「天皇制タブー」ということになるのであろう。実際これは今にまで続いていると思っている。明らかに、日本の文化には、この「天皇制」が大きく影を残している。無理矢理、天皇の問題を避けて、あらゆる言説が作られている。おそらくは、この問題に立ち向かわない限りは、日本の未来はないのだ。
なぜ日本書紀などというものが現れたのか?
これをもしも一言で言うなら、

  • 日本が<侵略>されたから

と言うしかないのではないか。つまり、これは戦後日本のGHQによる占領統治と、まったく「同型」の現象だと言うしかない。日本書紀を書いたのは、中国や朝鮮の

  • 官僚

たちである。だから、彼らは「当然」のように、日本書紀を書いたのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

さて、唐の羈縻政策について、これまで何度も論じてきたが、改めて唐による周辺国家の支配方式を確認しておきたい。

このように、唐は周辺国家を軍事的に滅ぼした後は、都護府や都督府を設定して羈縻支配を展開するという形をとり、服属する地域・国家を拡げていった。

当時の中国、つまり唐の周辺蛮族に対する政策はこうであった。日本は白村江の戦いで、三万二千人の船団で百済復興のために、唐との戦争を挑んだのだが、相手の唐の十万人を超える、大船団によって破れる。というか、コテンパンにやっつけられる。クソミソにやられる。カンプなきまでに。生き残ったものは捕虜になり、ほとんど全滅である。
まあ、日本はこうやって「侵略」しようとしたんだから、唐からは敵と認定されるわけだよね。まあ、天智天皇にどういった思惑があったのかは知らないけれど、圧倒的に戦力で不利な条件がそろっているのに、戦争を始め、ほぼ全員が滅ぼされたこの日本ってなんなんだろうな、とは思うわけである。
日本は中国にたてついた。そうであれば、中国がなんらかの韓国や日本への介入があってしかるべき、というのも理解できる。というか、羈縻支配といって、他の地域では当たり前のように行っていたのだから、なぜ日本だけそれを変えなければならないのか、ということなのであろう。
日本書紀には確かに、白村江の結果の後の中国が行ったはずの、「植民地政策」についての記述がない。これらは意図的に「削除」した、と考えるべきであろう。しかし、実は、

  • 削除漏れ

的な感じで、そういった記述が残っていたりする。てへっ。削除し忘れちゃった。

そこで注目したいのが、『日本書紀』天智六年(六六七)十一月九日条である。

十一月九日に、劉仁願が熊津都督府の法聡らを筑紫都督府に派遣してきた、という記事が見える。ここにみえる「筑紫都督府」とはいったい何であろうか。
小学館版『日本書紀3』の頭注は次のように説明している。

筑紫太宰府。唐の官制に倣った文飾か、白村江戦の後に太宰府を一時「都督府」と改称したか、未詳。唐が九州を占拠してこの官を置いたとする説もあるが、採らない。

この頭注がなぜ唐が九州を占拠した説を採用しないのか不明であるが、「筑紫都督府」なる表記は、たんなる誤記や一時的な表記と片づけるわけにはいかない。

どうも日本にだって、「筑紫都督府」があったんだそうですw 後にも先にも、ここにしか記述がでてきませんけどー。でてきませんけどー。まあ、唐の羈縻政策を考えれば、日本中の各地に都督府を作っていて不思議はないよねw
というかさ。白村江の後、日本中に

  • 奇妙な城

がたくさん作られているんだよね。しかも、朝鮮式の城がw しかしこの城。一体、どっちを守ってんのかなっていうくらいに

  • 意味不明

なお城なんだよねw

本気で防衛施設を築くつもりならば、元寇の際に設けた土塁のように海岸線に築くべきであろう。

つまり、大野城は北からの唐の軍勢を防ぐためではなく、南から九州勢力が侵攻してくる危険を考慮して、筑紫に駐屯する予定の唐軍を守るために築いたものであり、今後九州全域に羈縻支配を及ぼすために設けられたものと考えるのがいちばん合理的ではなかろうか。

まあそうだよね。だって、

  • 占領軍

なんだからw それは、戦後直後のGHQがそうだったのと、まったく同じわけだ。この事情は、白村江の直後に天智天皇が行った近江遷都についても言えるのだろう。

それゆえ、実態は近江遷都ではなく、飛鳥京の譲渡であり、近江への強制移動だったと考えられる。

そりゃそうだよ。なんで、戦争で負けた直後に遷都なんてすんの。やるわけねーよ。そんなかったるいこと、だれかに「やれ」とでも言われなきゃ、やるわけねーよなw

そしてもっとも注意を喚起されるのは、郭務悰が引き連れてきた二千人余人もの駐留軍の存在である。まずは『日本書紀』天智十年の記事を全文見ることにしよう。

とすれば、この二千人は、純粋に日本の羈縻支配を完成させるための人員と考えざるを得ない。

分かりやすいよね。実際、「占領軍」来てんじゃんw この人たちがGHQだよ。そして、彼らがGHQがやったように、

  • 戦後

の日本を作ったんだよ。
そしてもう一つ。決定的な証拠が、日本書紀に書いてあるんだよねw

その天智の意図が現れたのが、Fの是歳条に記載された、沙門道行の不可解な行動である。該当記事を再度引用しよう。

是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、茫迷ひて帰る。

この記事は、唐突に登場し、その理由も結果も記されていない。おそらくは、原日本書紀には記されていたのであろうが、それらは削除されたのであろう。

おそらく、草薙剣新羅に献上されたのであろう。その献上された草薙剣が大王家に伝わった本物であったかどうかは別にして、大王家の神器の剣は武力の象徴である。つまり、草薙剣を献上することは軍事力の移譲を意味し、日本が新羅に軍事権を委ねることを象徴しているのである。

あーあ。三種の神器新羅(しらぎ)つまり、唐と新羅の連合軍にあげちゃったんだってさw なんだったんだろうね、天皇制ってw まあ、これと同じことが、GHQの連合軍に行われなかっただけ、ましってことなのかな。というか、あげちゃったくせに、「盗まれた」って、子どもかよw
しかし、その後のプロセスもGHQと似ている。GHQがソ連との冷戦の緊張が高まるにつれて、日本の戦争犯罪人である高級官僚や、保守派の政治家を次々と無罪放免にして、社会復帰wをさせていくのと同時に、彼らを

  • スパイ

として使った(そういえば、この前のNHKスケシャル「東京ブラックホール」は戦後直後の日本の雰囲気をよく現していましたね。一部の支配者たちが食料をネコババして隠していたとかw)。つまりそうやって、アメリカが「ひよって」いったのと同じように、このときも、唐と新羅の連合軍は、新羅による唐への反逆によって、ベトナム戦争のような泥沼になって、結局、唐がこの「植民地政策」からの撤退を余儀なくさせられるのと平行して、その向こうの日本の占領政策も立ち消えになっていくわけだけど、まあ、そうは言っても、日本で働いている、唐から派遣されていた「お役人さん」たちは、仕事をしているわけですからね。
まあ。早い話が、戦後の日本をGHQが作ったのと同じように、白村江の「敗戦」の後の日本を、唐と新羅の「占領軍」が実質的に作ったわけよ。まさに、彼らは自分が唐でやってたのと同じように

  • ミニ中国

をやっていた。そりゃそうだよね。実際、唐にいた頃はそうしていたんだから。むしろ、そうしない方が変なわけでしょう。そして、その「実績」を、いわゆる

がパクったんだよw それをみんな「天皇」がやりました的な体裁に書きかえたのが日本書紀なわけでしょう。それぐらい気付けよな、日本の学者も...。

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス)

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス)