ガンダムについて語ることに意味はあるのか?

昨日は、映画館でアニメ「機動戦士ガンダム・ジ・オリジン」を、初回舞台挨拶のパブリックビューイングの回で見させてもらった。まあ、往年の声優の4人と監督の安彦さんがいろいろ話していたというだけのものであったが、一つはっきり言っていたことは、今後、1年戦争をもう一度描きたいと意欲しているということであろう。
まあ別に私のような世代にとって、このファーストガンダムについて語ることは今さらないわけだけれど、はやい話が子どもの頃の「なんだかよく分からない」思い出としてあったものなわけで、それについてこうやって改めて描かれたものを見ることにどれだけの意味があるのかというのは考えさせられるわけだが、しかしそういったことと、監督がここで何を描こうとしているのかというのは、また別なんだろうと思うわけである。
そんな視点で、今回の第5話を見てみると、シャアが赤いザクに乗るとき、「リミッター」を外すという話が描かれている。それは、人間への負荷を考えて、ザクの性能を制限していることが前提となっていたということで(こういった描写がファーストガンダムにあったのかは知らないが)、ニュータイプと呼ばれていたものについての現実的な回答を描いているとも言えるのだろう。
この作品の基本的な構造は、貴種流離譚なわけで、シャアとセイラをストーリーの中心に起きながら、そこにアムロというビルドゥングス・ロマン的な主人公が、そういった「大人」を横から眺めている構造になっている。後半はニュータイプといったような、変な概念にこだわってしまったためか、どうも支離滅裂な印象があるが、基本的な構造はそういうことだと思う。
製作者サイドが、ずいぶんと高齢になっている状況を考えると、1年戦争をもう一度やるとしても、やりとげられるのかという疑問をもたざるをえない状況ではあるがw、やるなら、まったく前回とは違った描き方がありうるのではないか、というのは思わずにはいられない。それは、前回の後半のような、よく分からない「ニュータイプ」のような概念に逃げるのではなく、もっとリアルな、あまり子ども向けではないような、上の世代が描きたいような「大人」の話にしていいんじゃないのか、とは思っている。そうすれば、自然と、シャアやセイラが、どの辺で自らに納得していくのか、といった、前回の積み残しのようなことが、すっきりした形で見えてくるのではないか。というか、だれかが、このガンダムなるものに、けりをつけるしかないんじゃないですかね、いい加減...。