自死についての考察

アニメ「賭ケグルイ」は、蛇喰夢子(じゃばみゆめこ)という、ある種の超越的なヒロインを中心にして描かれる、ギャンブル漫画を原作としたアニメである。このアニメにおいて、蛇喰夢子は基本的に常に

  • ご機嫌

である。機嫌がいい。いつも楽しくて、うずうずしている。ところが、アニメ版第7話での、生志摩妄(いきしまみだり)との対決において、唯一、彼女は「不快」の感情を爆発させる。
なぜ、このときだけ、彼女は「怒った」のか?

夢子:あなたにとっての勝ちとは殺されること。それがあなたの勝利条件。

夢子:ギャンブルは両者が痛みを感じるから楽しいもの。なぜあなただけが痛みを独占しようとしているのですか。あなたはギャンブルを楽しんでいるのではない。ただの死にたがり。私の一番大嫌いなタイプの人間です。端的にもうしあげて、むかつくんですよ、あなた。

夢子にとって、ギャンブルの「快楽」とはその成功も失敗も、賭けを行うプレーヤーに平等に施されているところにあった。つまり、だれもがギャンブルに勝とうとして、そのために命を削る姿にあった。それにだれもが

  • 真剣

だから、夢子は自らもそのギャンブルに快楽をもち、生きがいとすることに意味を見出していた。
ところが、妄が求めたものは、夢子が妄を「殺してくれる」ことであった。その「殺人」こそが、彼女を「快楽」させる、といったマゾヒズムにあった。だからこそ、なんとしても、妄は自分が負けて、夢子が勝つように、裏から仕組まなければならなかった。夢子が許せなかったところはそこにある。
早い話が、自分で死にたい奴は、勝手に自分で死ねばいいのだ。それは、夢子が考える「ギャンブル」の快楽ではない。彼女は

  • 生きよう(=ギャンブルに勝とう)

として必死になる目の前の人に自分がリスペクトをもてることに、生きる歓びを感じているのであって、それ以外の「不純」な動機によって、彼女に「まとわりつく」連中に、強烈な侮蔑感情を浴びせる。
私に言わせれば、自死について、人前で語る奴が、心底許せない。そんなことは人に話すことじゃない。絶対にそんなことで、人に迷惑をかけてはならない。それは、他者に自らの自死について「コミットメント」をさせようとする「卑怯」な振舞いと言わざるをえないであろう。人は自らが「死のうとする=自死する」と

  • 選んだ

時点で、あらゆることがどうでもよくなり、世界が滅びることさえ、どうでもよくなり、動物本能と離れた、狂気の行動を選ぶことにためらいをなくしていく。そうして、周りを彼らは「腐食」させていく。自らの「汚染」に周りを感染させることで、実質的な「世界の破滅」と自らの「自死」を等価に置こうとするわけである(世界の破滅と変わらないだけ、自らの死を「価値」あらしめようとする)。
夢子が求めたのは、「勝利」が得られるかもしれないし、得られないかもしれない、その狭間の「確率論」的な、事態の揺れ動きに対するスリリングであり、それが生きることであった。だからこそ、妄の「絶対に夢子が勝つように仕組んだ」という、妄による、夢子の

  • 快楽

を奪う行為を許せなかったのである...。