なんの生得性?

少し前に、こんな記事を書いた。

なんの確率? - martingale & Brownian motion

これを書いたときはあまり気にしていなかったのだが、読み返してみて、あることに気づいた。それは、ここにおける東浩紀先生は、なにか

  • 魂(たましい)

のようなことを語っている、ということだ。

ぼくは、たまたま日本人だから、たまたま男性だから、たまたま二〇世紀に生まれたからこのような信念を抱いているのであり、別の条件のもとではまた別のことを信じただろう、と想像をめぐらせることだからである。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

ここで「たまたま」と言っていることは、何を言っているのだろう? ダーウィンの進化論から考えるなら、「私」とは過去の「祖先」たちによる、遺伝子の「引き継ぎ」によって、

  • 渡されてきた

なにかであるということであり、<私>とはそれ以上でもそれ以下でもない。<私>とは、この私の「肉体」のことであり、この肉体が「思考」しているのであって、「魂」など存在しない。ここで「たまたま」と言っているのは、今自分がかくあることを

  • 自分

が選んできたわけではない、ということが言いたいのであろう。確かに「祖先」たちによる、遺伝子の「引き継ぎ」が自分の「選択」と言われることには違和感を覚えるかもしれない。私を産んだ親は、私とはなんの関係のない「合意」によって、子どもを作り、それが私である、というわけなのだから。しかし、私と私の親は、ダーウィンの進化論的な視点から言うなら、

  • 半分は「同じ」人間

だと言いたくなるような側面がある。事実、遺伝子(という肉体)は半分を「受け継い」でいるわけであるし、間違いなく、それはだれか他の人の

  • 肉体

ではないのだから。ここで、なぜこの議論は混乱するのであろう? それは、おそらくは「魂(たましい)」のようなことを考えているからなのだ。人間を、

  • 自分と(半分ではあるが)「同一」のコピーを作る「機械」

だと考えるなら、(というか、ダーウィンの進化論が言っていることはそういうことなのだが)「たまたま日本人だ」とか「たまたま男性だ」とか「たまたま20世紀に産まれた」といった表現は、ものすごい違和感を与えるであろう。なぜなら、「私」とは、そういったダーウィンの進化論的な意味での、「引き継がれている遺伝子」の言わば、

  • 総体

を指して言うものとならざるをえないのだから、この「全体」としてのなんらかの「実体」が「たまたま」と言うのは違うと言わざるをえないものを感じるわけである。
例えば、このように考えてみればいい。一般に「意識」と呼ばれている人間活動がある。しかし、そもそも人間には「意識」なんてないのではないか? これは、つまりは私がここで言いたいのは、一般に「意識」と呼ばれているものとは、結局のところ、

  • 言語

を媒介として記述される、マテリアルを媒介とした「反照的」に振り返られる何かのことであって、それは「意識」ではない。それは、ただの「言語」にすぎなく、こういった思考的な錯覚を

  • 魂(たましい)

と呼んできたのではないか。

ブランクスレート説にしばしば付随する、もう一つの神聖な教義は、通常、科学者、数学者であり哲学者でもあったルネ・デカルト(一五九六-一六五〇)のものだとされている。

身体が本来的に可分であるのに対し、精神はまったく不可分であるというかぎり において、精神と身体には大きなちがいがある。......私が精神を、すなわち考える存在でしかない私自身を考えるとき、私は私自身のなかにどんな部分も区別することはできず、私自身はあきらかに一つであり全体であるとわかる。精神全体は身体全体と結びついているようあが、仮に足一本、腕一本、あるいはほかの部分が身体から切り離されたとしても、私は精神から何かが取り除かれたとは感じない。意志をもつ能力や、感じる能力、理解する能力なども精神の一部分とは言えない。意志をもち、感じ、理解するときに、それにたずさわる精神は同じ一つの精神だからだ。しかし物体的なもの、すなわち延長のあるものについてはちがく。私の精神がそれを容易に分割できないと創造することのできるものは一つもいないからである。......これだけでも、人間の精神あるいは魂が身体とはまったくちがくことを私に教えるには十分である----仮に私がまだ、ほかの根拠からそれを知っていなかったとしても。

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

このスティーブン・ピンカーの発言は、いわゆる「ブランクスレート説」に反対する文脈で言われている。ところが、一般にはデカルトジョン・ロックに反する形で、

  • 生得的

なものの存在を認めていると解釈されている。そうだとすると、このピンカーのデカルト批判は、どういった文脈でここで言及されているのか、ということになるかと思われる。
スティーブン・ピンカーの発言は、いわゆる「ブランクスレート説」に反対する場合、そこでの最初に問題にされたのは、言うまでもないが、ジョン・ロックの「ブランクスレート説」なるものと、世間一般に言われているものということになるだろう。
しかし、そもそもこのジョン・ロックの、いわゆる「ブランクスレート説」なるものには、

  • 先駆的な批判者

が存在する。まあ、言うまでもなく、ライプニッツだが。

ライプニッツは(彼に影響をあたえた)ホッブズと同様に、知能とは一種の情報処理で、その実行には複雑なメカニズムが必要だということを時代に先駆けて認識していた。今日の私たちが承知しているとおり、コンピュータは組み立てラインから出てきた時点で、音声言語を理解したり文章を認識したりるするわけではない。そうするには、まずだれかが適切なソフトウェアをインストールしなくてはならない。はるかに要求の厳しい人間の行為にも、これと同じことがあてはまるらしい。

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

こうやって見ると分かりやすいが、ピンカーは自分の意見が基本的にライプニッツの主張と変わらないことを、こういった形で強調している(というか、上記の引用が分かりやすいように、ピンカーはおそらく、ロックを読んでいない。ロックを読まずに、ライプニッツが言っていることを「口パク」して、ロックはダメだ、とまるで亡霊にとりつかれたように言っているわけで、本質的にロックが何を言っているのかを理解しているのかといったことには、興味もないし、自信もないので、こういったフワフワした文章になる、ということなのだろう)。
哲学の特徴というのは、長い「論争」の歴史がある、というところにあるわけで、このジョン・ロックライプニッツの間にかわされた「論争」について、さまざまな「研究論文」がある。そう考えるなら、もしもピンカーを通して、ジョン・ロックの、いわゆる「ブランクスレート説」なるものに、批評を行いたいとするなら、そういった

  • 先行研究

を踏まえて言うことは、学者としての誠実さを疑われるわけである。

ロックは、知識とはそもそも人に宿る人格的なものであり、したがってまさしくそれは「行為」であり実践であると捉えていた。つまりは、知識はそのまま社会的営みであり、知識を持つ者のみが理性人として社会に参入できる、と考えていたのである。その場合、現に知識を得ようとする実践があるかどうかこそが、真の問題である。不可能でないからといって、たとえば潜在的な知識を認めてしまったら、社会は形成されず、そもそも知識成立の基盤が失われるという自己破滅に至らざるをえに。したがってロックは、生得説は不可能であると、積極的に断じなければならなかったのである。
このように理解されるロックの議論の根底には、二つの重大な着想が横たわっている。第一は、知識を獲得する主体は社会のなかで自らの責任を担える「人格」である、という着想である。こうした捉え方は自然法の「知識」に関してはほぼ明らかに当てはまるだろうが、それ以外の知識の場合でも同様に妥当する。そうした普遍的妥当性はまず、知識は、究極的にはそれを獲得する者が全面的責任をもってなす、一種の跳躍としての同意・決定によって確立される、というすでに述べた論点によって確立されよう。序章でも触れたように、知識を獲得するということがそれを獲得した者の責任に結びつく、という構造は実際に出現しうるし、現に生じなくとも、知識獲得の原理的構造として確かに存立しているのである。さらには、それだけでなく、知識獲得のための努力探究や同意決定の行為は、実は何らかの言語体系や理論体系、そしてそれらを伝える教育制度との連動においてはじめて可能となる、という論定によっても、知識を得るのは社会のなかに生きる「人格」であるという着想を普遍的に根拠づけることができよう。後者の論点は、何らかの言語や理論なしに知識を形成することは全く不可能であることを考えるとき、事柄として明らかであろう。そしてロック自身もまた、すでに見たように、『自然法論』第三論文で知識の印銘説を批判する文脈において、矛盾律などの思弁的原理についての知識形式の一つの手がかりが他者らの教授にあるとしていたとき(LN 144)、知識獲得と教育との本来的連関に触れていたと考えられる。また、ロックが「知識は命題にかかわる」(3.1.6)と述べ、さらに自他の間で交わされる言語の日常的用法は制限されていて、その制限に従わなあければ適切な語りとは言えない(3.2.8)とするときにも、知識というものが社会的な交流に支えられており、したがって、知識はそうした交流の主体たる「人格」にこそ宿る、という論点が浮上していたはずである。もっも、知識獲得の最終の根拠は獲得する者自身の知識そのものへの「同意」にあることはロックが繰り返し強調することであり、したがって、社会的・制度的背景は知識獲得のための必要条件という身分でのみ、しかし必要条件という仕方によって本来的に、知識の確立に連動していくこと、このことは押さえておかなければならない。

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

ここで一ノ瀬正樹が言おうとしていることは、カントの純粋理性批判実践理性批判の「差異」として考えると分かりやすいであろう。一ノ瀬に言わせれば、ジョン・ロックが考えているのは、一貫して

  • 実践理性

の話しかしていない。もっと言えば、ジョン・ロックがここで「知識」という形で言おうとしているものとは、ロックの「社会契約論」がそうであったように、徹底して

  • 同意・決定

を伴ったものとしてしか考えられていない。つまり、ロックの言う「知識」は、そうやって同意・決定する行為によって、その「責任」を担うといった、実践的な営みに対して考えられているのであって、そういう意味で、ライプニッツにして、その口パクでしかないピンカーにしても、ロックの論点を外していると言わざるをえないわけである。
ライプニッツは、

人間知性新論

人間知性新論

において、ロックを批判しているわけだが、ライプニッツが言っていることは、人間は「機械」なのだから、人間の一切の経験は、

  • それ以前

と呼ぶしかないような、「プログラミング」の実行なしには、そういった「経験」の「記憶」すら残りえないわけだから、その二つを分けて考えることはできない、というわけであろう。しかし、そう考えるなら、上記の、いわゆるロックの「ブランクスレート説」批判は、どうしても違和感をもたざるをえないわけである。それは、人間の「経験」以前的な、なんらかの「性向」性に注目している。大事なポイントは、この「性向性」は

  • 能力ではない

というところにある。

しかしでは、ライプニッツの『新論』における論究は、ついにロックの議論の核心には届かず、それと並び立つ次元にまで達することはなかった、と言うべきなのだろうか。この点については、そう性急に断ずべきではない。というのも、ライプニッツには、第一章で検討した形式説と潜在説以外に、もう一つ「性向」説と称すべき思索の方向があり、むしろそこにライプニッツ生得説の真髄が開示されているのではないかと考えられるからである。ライプニッツは、形式説や潜在説を述べた後、それは単に能力を持っているということにすぎないではないか、とい想定反論を示したうえで、次のように語った。

使用せずにある事物を持っていることは、単にそれを獲得する能力を持っていることと同じなのだろうか。もしそうであるなら、われわれは現に享受している事物しか決して持たない、ということになろう。けれども、能力と対象以外に、能力が対象に働きかけるためには、しばしば何らかの性向(disposition)が、能力や対象のうちに、そしてこれら両者のうちになければならない、ということが知られている。([41]64)

ここでライプニッツは、思惟の根源に思惟が成立するための何らかの「性向」があることが承認される、よって「性向」は生得的である、と主張しようとしている。これが性向説である。ここで注意すべきことは、ライプニッツが能力とも対象とも別個な契機として「性向」の概念を導入している、という点である。まず、「性向」が、対象以外の、対象とは別個な契機である点から、性向説の独立性が明らかとなる。というのも、さきに触れた形式説や潜在説が、あくまで表象や対象としての生得概念の存在を主張するものである以上、対象以外のものの生得性を主張する性向説は、形式説や潜在説とはひとまずはっきり異なる主張であるはずだからである(cf. [34] 173-74)。さらに、「性向」が能力とも別個な契機であるとされている点は、ライプニッツの性向説の独自性を顕わにすると言えよう。そもそも「性向」の概念は一般にアリストテレスの「可能態」の概念にその源を持つとされるもので(][29] 200-30)、基本的には「能力」という概念とほぼ重なるものであった。けれども、ライプニッツはここで「性向」を能力とは別個なものとしているのである。してみれば、ライプニッツのいう「性向」は可能的なものではなく現実的なものなのであろうか。
人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

つまり、ライプニッツの「生得的」が何かは、この「性向性」のことを言っているわけで、なんというか、なんらかの「微分」的な働きのようなものを考えているわけだけど、これらは言ってみれば、「経験」といったものとは

  • 別次元

に本来なら人間のその特性において解釈されるもの、ということなわけであろう。
動物は、多くの「過去の進化の系統進化」を引き継いでいる、と言われる。はるか祖先においては、意味のあった特徴が、時の経過と共に使われなくなり、逆に、まったく違った用途で使われるようになったりする。それは、

  • たまたまそれが「そこ」にあったから

使い始めたとしか言うことのできない、なんらかの「異物」なのであって、こういったものを「目的」とか「能力」といったものの延長で考えることは難しい。
例えば、目の前に植物の種があったとしよう。この種に、水を与え、太陽光と土の養分と一緒に育てたとすると、次第に芽を出し、大きくなり、立派な植物となる。そうしたとき、後から振り返って、その種には、こういった植物になる

  • 能力

があったのだ、と言いたくなる。しかし、その「能力」とは、そもそもそうやって生長した後のその植物の「属性」において言及できるものにすぎず、それ以前の種とは、まったく関係ないわけである。それはまさに、「微分」的とでも呼ぶことしかできないような、「性向」性なのであって、ライプニッツは正確にその二つを区別する。
しかし、ライプニッツの口パクを自称するピンカーは、あまりその辺りについて理解していないんじゃないか。というか、そういった辺りに、なんとなくではあるが、ピンカーのロックやライプニッツに言及するときの

  • 自信のなさ

とような、ふわふわした感じで、おっかなびっくり言及しているような、曖昧さがあるように思われる。どう考えても、ピンカーの言っていることは、ライプニッツ流の「性向」性ではなく、たんなる「能力」にすぎない。だから、ピンカーの本の議論は、どこは曖昧で、結局のとこはなにが言いたいのかが、いまひとつはっきりしない、(まあ、ニーチェ的と言ってもいいが)暗喩のような文章にあふれている、ということなのだろう。
それは、ピンカーがさかんに「生得的」という言葉を使いながら、「なんの生得的」とは言わないことにも関係している(このとこは、最初に引用したブログの記事での、「偶然」ということを言いながら、「なんの確率」なのかを言わないことと、同型の問題だと言える)。この奇妙なレトリックを、

  • 反語

にしたのが、「ブランクスレート」なのであって、そういう意味では、そもそも争点は「ブランクスレート」ではないのだ...。