「主体」の魔術師

ルソーの社会契約論を見ていると、おそらく、最もこの議論の鍵になる場所が、ここではないのか、と思うところがある。

主権を譲り渡すことができないのと同じ理由によって、主権は分割できない。意志は一般意志であるか、そうでないかのどちらかである。すなわち人民全体の意志であるか、人民の一部の意志にすぎないかのどちらかである。それが人民全体の意志である場合には、表明された意志は主権の行為であり、法となる。それが一部の人民の意志にすぎない場合には、それは個別意志であるか、行政機関にすぎず、せいぜい命令であるにすぎない。

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

これは一見すると、それほど変なことを言っていないように聞こえるかもしれない。しかし、素朴に考えてみよう。私は「主体」である。これはいい。じゃあ、国家は「主体」だろうか? そりゃあ、国家は主体だろう。だから、そうだということで議論をしているのだから。次に、企業はどうだろう? まあ、企業だって「主体」なんじゃないのか。別にそう扱って、かまわないだろう。じゃあ、上の引用で問題にしている

  • 分割できない

ってなんなのだろう? つまり、難しく考えることはない。この世界には、さまざまな「主体」があって、私たちは、それぞれとの相互作用で生活をしている。それで、なんの問題があるのだろう?

英米思想は、国民が国家の最高権力者だということを強調せず、人民と政府の間に結ばれている「信託」関係を強調する。政府が契約関係によって成立しているものであることを強調する。言うまでもなく、その「信託」の内容を記した契約書が、憲法典と呼ばれるものであり、それは国の根本的な仕組み(Constitution)を定めた文書のことである。この人民と政府の間の関係を規定し、国の根本的な仕組みを定めた「信託」契約を、人民も政府もともに根本原則として尊守する。そのような基本的な仕組み(Constitution)の尊守を根本規範と考えるのが、「立憲主義(constitutionalism)と呼ばれるものである。

ロックの議論は、政府(「通常権力[ordinay power])と人民(「制憲権力[constitutive power])の「二重の最高権力(supreme power)」議論である。どちらか一方が真の主権者ということではなく、複数の最高権力を機能で分けた上で、意識的に調和させるのが、ロック以来の政治思想史上の「立憲主義」の伝統だ。
ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)

結局このように説明すると、非常に「普通」に世の中の物事を考えられる。なにも、特権的なものはないし、なにも「上」とか「下」といったものはない。それぞれの「主体」がそれぞれに「契約」を行い、それぞれに、普通に日常を過しているのであって、そんなことになにか特別な説明は必要ないわけである。
では、ルソーの社会契約においては、そういった「主体」の絶対性を強調することによって、どんな特徴が生まれているのだろうか?

たとえば、フランス革命に影響を与えたジャン=ジャック・ルソーの古典的な著作『社会契約論』を見れば、ルソー流の「社会契約」が、国民が自分たち相互で結ぶものであり、政府と人民の間の契約関係の考え方が希薄なものであることがすぐにわかる。なぜならルソーによれば、国民が国家それ自体であるので、政府と人民を分離して契約させるような発想が生まれる余地がないのである。
ほんとうの憲法: 戦後日本憲法学批判 (ちくま新書 1267)

ルソーのこういった発想は何を意識しているのであろう? 以前、私もこのブログで指摘した記憶があるが、実は「一般意志」という言葉はライプニッツが使っている。つまり、ルソーはライプニッツから、この言葉を(なんの断りもなくw)パクってきたわけであるがw(まあ、その程度の論文なんだw)、そこにおいては、そもそもライプニッツ

の意志についての議論について語っていたわけである。
このことが何を意味しているのかといえば、ようするに、ルソーは「国家」を「神」のアナロジーで語っている、ということなのだ。国民主権とは、国王主権のある種の「言い換え」であり、日本であれば、天皇主権ということになり、国民には主権はない、国民は「臣民」でしかないということになり、国民は国家の奴隷だということになる。
これはようするに、地方領主に対して、領地の小作人が絶対に逆らえない、といったような「アナロジー」を意識していることが分かる。
そうであるから、国民主権といっても、それは「国王主権」を言い換えたものでしかないのだから、それはいくらでも入れ替えられる。代替可能なものでしかなく、つまりは本質的に「国民主権」は(裏側では)「国王主権」となっている、ということなのだ。
さて。なぜ地方領主に対して、小作人たちは服従するのだろうか? それは、江戸時代を考えてみれば分かる。徳川家康は「神」であった。そこには絶対的な「神聖性」があるために、小作人はその「たたり」を畏れて、服従する。それは、日々の農作業の天候から始まり、一切の「日常」に関係して服従を求められるわけであり、基本的にはこういった発想の延長で、ルソーは国家を考えているわけである。
さて。最後にまたネタではないのだがw、いつもの東浩紀先生がなんと言っているのかを振り返ってみよう。

主権とは、すべてをきめる最優位の権力のことなので、その内容に欠陥を指摘するのはできないと思います。主権に対して欠陥を指摘することができる審級がほかにあるのであれば、そっちが主権です。
@hazuma 2017/01/29 11:40

まあ。典型的なルソー的「主体」の発想ですよね。世の中には、普通に複数の「主体」があって、それぞれの間で、それぞれの「契約」があって、それらがさまざまにネットワークのようにはりめぐらせられており、そこには「上」も「下」もない、といった世界イメージはない。
ルソーの「主体」とは、国家が国民を「自由意志」で「殺す」主体のことであり、そこに「ロマンティシズム」がある。言わば、

  • 最優位

といった発想であって、その絶対的な高みにおいては、国民が国家に殺されることに抗えないで、忍従していかざるをえないほどの「強さ」にロマンティシズムを感じるわけであるが、では何がそのような暴力を正当化しえるのかと考えているのかといえば、そこに表の議論にはあらわれない

  • 宗教

の影があるわけである...。