非人間性の文化史

少し今までのまとめのような形で、長めに論じてみたい。
例えば、ラノベやはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」と、ラノベようこそ実力至上主義の教室へ」は似ている。それは、主人公の比企谷八幡(ひきがやはちまん)と綾小路清隆(あやのこうじきよたか)、ヒロインの雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)と堀北鈴音(ほりきたすずね)が対応している、というだけではない。もっと、本質的に似ている。
それは、主人公が問題を解決していく手段が、

に関係して描かれているところにある。

「次にどんな試験があるか分からないが、オレはある仕掛けを打とうと思ってる」
「仕掛け?」
歩きながら、喧騒に溶け込みながら非常に重要なことを言葉にする。堀北にも話していないこと。
「退学者を出させる」

ラノベ「実力至上主義」の主人公の綾小路は自らの本性を隠し、成績もわざと50点くらいの点数に収まるように記述して、自らの「本性」がばれることを隠していたが、担任に自らの父親が彼を退学させてくれと嘆願に来たことを境にして、綾小路に、DクラスからAクラスに上がることを強制する。
綾小路はその担任の命令を達成するという手段として、上記のように同じ学年から一人の「退学者」を出すことを、学校の出方を探るという意味で行おうとする。しかし、問題はその方法である。自らの「目的」を達成するために、非人道的な手段を選ぶことをためらわない。つまり、ここで問われていることは

であることを理解する必要がある。そのことは、俺ガイルの主人公の比企谷についても同じで、彼は自らのその行動が「非人間的」な手段を選び、行動してしまうことに悩む。
例えば、探偵小説を考えてみよう。この場合、そこにある「謎」を解くことに、「非人間性」は関係ない。推理は、正しいか間違っているかの二つしかなく、たとえその解決の手段が、非人間性を手段としたものであろうと、謎が解けた場合のその事実は変わらない。
しかし、である。
そういった手段を選ぶことは、そもそも人間としてどうなのか、といったことは本質的な問題であったはずなのである。
90年代の日本の状況において、オウム真理教による地下鉄サリン事件酒鬼薔薇聖斗事件はある種の

がクローズアップされた時代であった。しかもそれは「若者論」として語られた。アニメ「機動戦士ガンダム」の初代において、始めてそのキーワードが登場した「ニュータイプ」は、ある種の「若者論」として語られた。そのとき、その差異は、たんなる「能力」の問題として語られたのではなく、ある

を「子供」がもっている、といった形でそれを「肯定」しようといった議論として、理解されていった。
基本的には、東浩紀先生の『動物化するポストモダン』も、そういった議論の延長において受け入れられていった。
ポストモダンの非決定性は、

  • 人権や人間の尊厳や啓蒙思想には「根拠がない」

といった文脈で議論された。それはまさに、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのと同じように、なんらかの「非人間性=動物性」には、時代の「根拠」がある、といった議論としてずらされていく。
例えば、科学にしても、遺伝学=優生学にして、それは「科学」だから、「真実かそうでないか」の問題として語られる。しかし、もしもこれが「真実かそうでないか」の違いでしかないとするなら、そこに

がまぎれこんできることを意味している。
例えば、功利主義と呼ばれる道徳哲学がある。しかし、ここでの「帰結主義」はある種のトートロジーによって成り立っている。そもそも、私たちが「結果」という言葉を使うとき、そこには「予想」という、それとペアになった二つによって物事を考察することを意味していたはずなのだが、功利主義においては、あらゆることは「帰結主義」なのだから、つまりはそれを「現実」という言葉で解釈されるとき、あらゆる現象は

  • 必然

の層において言及されるわけである。
ここに魔術がある。
私は、東浩紀先生のレトリックのネタ元は、カール・シュミットの『政治的ロマン主義』なんじゃないのかと疑っている。

この根本的な形而上学から--論理必然というわけではないのだが--この世界に対するさらなる態度と思考様式が導かれる。まず、この世のすべてはかりそめの事象に過ぎない以上、それに対する適切な態度は、美的な観点からの受け入れであり、鑑賞/ 感傷である。つまり受け身の姿勢である。この世の事象に積極的に関与する意味はない。しかし、審美的鑑賞/ 感傷の主体はあくまで「私1人」であり、そこから奇妙にも主観の絶対化が帰結する。こうして生まれた絶対的主観はこの世のすべてに対し、恋人であるはずの対象に対してさえ無責任でアイロニカルな態度をとる。崇拝の対象となるべき恋人の気高さは、ドン・キホーテにとってのドルネシア姫と同様、実は自身の美的インスピレーションの反映であり、恋人そのものは偶然の事象(Anlaベータ)に 過ぎない。
しかし、こうしたアイロニーは絶対化された自身には妥当しない。そこに立ち現れるのは、自己に対する客観視を欠いた、つまりユーモアのセンスを欠いた大まじめでpatheticなアイロニーである。道徳も倫理もその意義を否定され、すべては個々人の情動と霊感へと解消される。つまり、ロマン主義とは、極端に主観化され、私化された事象主義である。
長谷部恭男 憲法学の虫眼鏡 - 羽鳥書店 Web連載&記事

結局のところ、ルソーにしろ、ニーチェにしろ、ハイデガーにしろ、ある種の

の延長で考えている。そしてこのプロテスタンティズムは、リバタリアニズムも、カリフォルニア・イデオロギーも、もっと言えば、ポストモダンも同じ地平の上で考えているにすぎない。それは「反語」として語られる。つまり、

だ。人間が守ってきた、「人間の尊厳」を毀損することによって、反正統主義を「正統化」する。つまり、非人間性を「正統化」する理屈が、人間の根源的な有り様を破壊することの「快楽」に関係して描かれる。
しかし、そこにはある根本的な差異がある。
例えば、リバタリアニズムは、国家による国民への自由の制限の最小化と共に、国民への福祉の最小化を主張する。そして、東浩紀先生は自らを「福祉最小主義者」と自称し、それを自ら提示した概念である「動物化」と重ねる。

つまりは、リバタリアンの「国家」は、政治=動物の層に属するメカニズムとして考えられているのである。だからこそ彼らは、国家について民間企業と同じように論じることができる。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、そもそも「動物化するポストモダン」を出版する段階においては、彼にとって、動物化というのは単純に肯定的に語られる概念ではなかった。

単純に動物化にむかうのではなくて、動物的に欲望を突き詰める方向と擬似的に人間であろうとする方向=シニシズムが「解離しつつ共存している」さまこそが新しいオタクなのだ、という言い方をしているはずです。
(「平成批評の諸問題1989-2001」)

ゲンロン2 慰霊の空間

ゲンロン2 慰霊の空間

いずれにせよ、『動物化するポストモダン』が単純に動物化を肯定する本ではなかったことはあきらかだし、実際ぼく自身は、動物的手段でいかに人間的主体を回復するかというテーマでぞゲーム的リアリズムの誕生』(07年)も書いている。
(「平成批評の諸問題1989-2001」)
ゲンロン2 慰霊の空間

ところが、「観光客の哲学」においては、自らを「福祉最小主義者」と自称しているように、ほとんどリバタリアン動物化=非人間性を自らの最終解決のように議論をしている。
しかし、である。
そもそも、プロテスタンティズムローマ法王を中心としたカトリックに抵抗をしたのは、国家からの干渉を嫌がるという意味であり、つまりは

の思想なわけである。中央政府からの干渉を嫌がることと、州政府による「地域自治」を徹底させることは矛盾しない。つまり、これはまったく「福祉否定」を意味しないわけである。
ジョン・ロック流のコミットメントの政治において、国家による善(=福祉)の行為は、国民一人一人が「忙しい」わけで、そういった些事にかまっていられない、時間がない、ということに関係して成立していた「信託」なのであって、反福祉ではないのは当たり前なのだ。国民は時間はないが、かといって、まったく政府の監視に責任がないかといえば、そんなことはない。ここには、一定のバランス感覚があるのであって、そういったものを一切捨象して、単純なモデルに収斂することは欺瞞的なのだ。

あるいは、政治的決定の性質はまさしく多数決にあるという反批判も可能であろう。判官贔屓的心情からか、少数者を切り捨てるのは問題であるというのはたしかにそうだが、政治的決定という集合的決定が富者であれ貧者であれ何らかの少数者に不利益をもたらさざるをえないことは避けられない。まさにその点が政治という営みのもつ非倫理的要素であり、ある種の暴力性でもある。ヴェーバーが政治を暴力装置との関連で指摘したように、イエス仏陀といった宗教的達人が政治から距離を置いたのはこのゆえとも言える。
(坂井広明「第四章 古典的功利主義における多数と少数」)

功利主義の逆襲

功利主義の逆襲

こういった議論が分かりやすいように、ようするに、功利主義は道徳理論ではない。非人間性

  • しょうがない

といった理論であって、そのことに開き直っている。つまり、一種の「非人間性の正当化」の理屈において採用されているのであって、基本的には上記の文脈と変わらないわけである。

たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。
ゲンロン0 観光客の哲学

ここで、東浩紀先生がまるで「当たり前」のように語っているレトリックも、ほとんど功利主義のことを言っていることが分かるであろう。次々と、繰り広げられる

を正当化させるレトリックにおいて、東浩紀先生は「人間の未来への生存」を見出す。つまり、人間が未来に生き延びるためなら、

  • どんな悪も許される

というレトリックになっている。つまり、この一点において、強行突破的に

が許されるだろう、といった形で議論がすりかえられている。しかし、そうなのだろうか? 人間は自らが生き延びるためなら、「なにをやってもいい」のだろうか? たとえ、結果として人間が滅びることになろうとも、守らなければならない倫理というのは、あるのではないのか?
例えば、いわゆるトロッコ問題と呼ばれているものにしても、一人を犠牲にしようと、より多くの犠牲にしようと、ここで問われていることは、

  • その「選択」を自由に選んでいい

というところにこそ、本質があるのではないか。なぜ、どちらかでなければいけないのかを決めなければならないのか? 現代の法体系は、人間の行動の自由を基本的に認めている。だとするなら、一人の方か、複数の方か、どちらが犠牲になる方を選んだのかを法的に裁くことは、基本的にありえない。人間は「実践的」に生きる存在なのであって、それぞれの選択にはそれぞれの「理由」があるのであろうわけで、そのことを理解していない周りが不遜にも、糾弾することは許されない。それは、人間には

  • 人間の尊厳

があるからなのであって、このことを忘れた一切のレトリックはこの「非人間性の文化史」において、我々の人間性を守る戦いにおいて、これからも抗い続けなければならないわけである...。