すべての現実は「政治」である:第4章「エリート」

さて。前の第3章でのフォトの物語にはもう一つの興味深い視点がある。この行商人たちが毒草の入った食卓をかこんで、おいしそうに食事をしている最中に、この行商人の頭領の息子は父親にある提案を行う。

「お父様。お話があります」
食べていた頭領が、その手を止めて息子へと優しげな視線を送りました。
「あの奴隷ですけれど、この先どうするのですか? この先もずっと一緒に連れて旅をするとは思えませんが」
その質問に、息子以外の人間も興味を示しました。全員が、頭領へと顔を向けます。
頭領はふむ、と少し考えた後、
「確かに、手に入れたはいいが、あんな調子では困る。次の国で、売り払ってしまうのがいいだろうな。高く売れるとは思えないが」
「ではお父様!」
頭領の息子が、嬉しそうに声を上げて、
「では、僕に安く売ってくれませんか? 自分の貯金からお父様にお支払いします!」
「ふむ。どうするつもりだ? 奴隷を連れて歩くには餌代がかかるぞ、息子よ」
頭領が訊ねると、息子はしっかりと頭領を見据えて答えます。
「連れては歩きません。僕はあの奴隷を殺します」
その言葉は、叫び疲れてうずくまっていた奴隷にも、しっかりと聞こえました。
「ほう。殺すと言ったか?」
頭領が、どこか嬉しそうに答えました。
「はい! 僕ももう、みんなに守られてばかりではいけないと思います。僕は、戦える立派な男になって、お父様やお母様、そしてみんなを守りたいのです。そして、いざという時に人を殺すのを躊躇するような、そんな弱虫でいたくありません。ですから、アレを手に入れたら、さんざん痛めつけて、その後で手足を撃って、それから腹を切り開いて殺します! そのために売ってください!」
きっぱりと言い切った息子を、頭領はしばらく眺めました。そして緊張で唾を飲み込んあ息子へ、まずは一言。
「いいだろう」
「ほ、本当ですか!」
「ああ、男に二言はない。まだ幼いと思っていたが、お前もそろそろ一人前の男になるべき時が来たということだな。よかろう。それならば、手に入れた価値があるというものだ」
(第十話「雲の中で」)

つまりは、この頭領は息子に

  • いざとなったら家族を守る(=家族以外の人間を殺す)

ことを、実際に行うことをもって、その大人への「通過儀礼」として、許すわけである。
これが「家族」である。
こういった逸話は、どこか、戦前の帝国日本軍による、中国での蛮行を思わせるところがある。当時の帝国日本軍の若手将校は、経験を積ませるために、中国の現地の住民を

  • 試し切り

をさせていたことが多くの記録として残っている。このことはここでの「家族」が、軍隊における

  • エリート

のアナロジーとして語られていることに注意がいる。
しかし、である。
この物語は、どこか、前の第2章で紹介した、バーナード・ウィリアムズの話に似ていることに気付かないか。もちろん、人によっては、向こうは自分の妻を助けるという道義的に認められるべきものと、こういった、あってはならない非人道的な扱いを同列に比べることは許されない、と思う人もいるだろう。
しかし、よく考えてみてほしい。
家族が「大切」ということは、こういうことなのだ! それは、次のバーナード・ウィリアムズの話を少し変更したヴァージョンにおいて、よく示されている。

たとえば、バーバラ・ハーマンの導きにしたがって、夫が自分の妻を助けるために、ある子供を船外に投げ捨てなければならなかったと想定しよう。ここにあるのは、深い個人的な愛着から、他人の権利と衝突するような行為へと至るような状況である(ほかにも多くの類似状況を想像するのはたやすい)。そうした状況で個人的な愛着がそれだけで行為への十分な理由になると考える行為者は、一つ考えが足りないと責められるべきだと、われわれは言いたくなるのではないか。
これがカントの立場であることは明らかである。カントの立場は、ここでの争点にかんしていえば、二つめの構図を採用して考える立場であると特徴づけられうる。いいかえればカントの道徳性によって求められるのは、どれほど深い個人的な愛着でも度外視せよ、正しい行動方針の決定においてはそんなものは無に等しいと考えよ、ということではない。求められるのはむしろ、道徳的な考慮のほうがうわまわるという可能性に心を開くこと、他人の権利と感情に敏感であることである。このことによって行為者は、いかに深い個人的な愛着であっても、それを動機とする行為が許容されうるか否かについて、事情が許すかぎり反省することへと導かれるだろう。すでに見たとおり、そのように心を開き、敏感であることは、カントが思い描く有徳な心根の本質的な徴標の一つなのである。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

はっきり言えば、カントの「理性」のモデルはシラーやヘーゲルの、ロマン主義的な人間モデルに比べて、地味であり、まさに、民主主義国家のような、ぐだぐだな意志決定過程であるが、ここには間違いなく、

  • 熟慮

がある。つまり、「考える存在」こそが人間の本質である、という一つの哲学が一貫している。しかし、こういったモデルをそう簡単に手放せるだろうか? というのも、現代社会における、司法制度を考えても、じゃあ、カントのモデルを採用しないとして、どうやって人々に「責任」や「刑罰」というものを容認させるような社会をイメージできるだろう?
むしろ、シラーやヘーゲルの人間イメージに比べて、カントのモデルはずっと人間的な印象を私などは受ける。人間は、その行動を起こす、最後の最後まで悩み続けるし、その行動を行った後でさえ、普通に

  • 後悔

という行為を行う。それは、まさに、カントのモデルが示しているような、民主主義国家のような合議制的な、心の中のさまざまなエージェントたちの、それぞれの

  • 独立

した活動が行われていることの証明だとも言えるわけで(どんな英雄も常に迷いの中で選択をするのであって、そうでないのはファシストくらい、というわけだ)、私にはこちらの方がずっと、人間的だと思うわけである...。