fripSide「Hesitation Snow」

そもそも商業音楽に対する視聴形態が変わったのはいつからなのだろうかと考えてみても、あまりしょうがない話なわけで、今では、基本的にたいていは、YouTube のようなところで公式が配信しているPVがあるわけで、そこから聞くというのが、あまりにも当たり前になって、しかし他方において、JASRAC のようなところは相変わらずあるわけで、なんなのかな、と思いながらも、時だけは過ぎていく、という感じでしょうか。
そういえば、今週の週刊文春で、小室哲哉がとりあげられているわけだけど、前回はその情報を一早く察知して、それが紙面に載る前に記者会見をやったわけだけど、今回は事前の記者会見をやらないんだな、と素朴にふーんと思ったわけだが、なんなんだかね。
私も身体障害者を身内にもつ人間として(KEIKO さんと比べても絶望的に症状は悪いわけだが)、やはり、そういった方の今の状況というのは、小耳に入ってくる範囲でも気になったりするもので、まあ、いずれにしろ、元気そうだといった記事だったことは、よかったんじゃないだろうか。
私にとって、世の中のそういった身体障害者に対する「無関心」というのは、本当にこのままでいいのだろうか、と思ったりすることもある。それは、人間として、そういった「冷酷」な存在であることを「正当化」するような、そういった今の世相に対して、なにかしらの違和感を覚える、ということであって、それはここの前の、日本代表の試合を見ていても思ったわけで、ああいった

  • 能力

があれば、回りがちやほやする、といった「能力」至上主義には、根本的な非倫理性があるんじゃないのか、という疑いなのだ、と言ってもいいのかもしれない。
小室哲哉がなぜ「免罪」されているのか? それは、彼には「才能」があるから、と世間が考えているからであり、彼は

  • 芸術家

だと考えられているからであり、つまり、そういった人間たちはそもそも「非人間性」を「美」に変える。そういった、高尚な何かがそこにはあるんだ、とか考えられているからなのだろう、というわけであり、正直そういったことに私はうんざりなのだ。
ところで、全然話は変わるが、アニメ「ラブライブ」において、そのファンたちは「ラブライバー」と呼ばれ、ミューズは大晦日のNHKの紅白歌合戦に出場し、その次の年に東京ドームで解散コンサートを行って、その後継作品として、アニメ「ラブライブ・サンシャイン」が始まったわけで、それに伴い、「ラブライバー」とは、「サンシャイン」であり、アクアのファンのことを呼称するもので「も」あるという形で、スライドしていった。しかし、ここでその「ラブライバー」という呼称を、あくまでも無印ラブライブのミューズに対するものと解釈するならば、そのことの

  • 意味

とはなんだったのだろう、と、ときどき考えさせられる。もちろん、無印ラブライブも別に、その活動が終わっているわけではない。スマホゲームとして、その後に新作が作られたりもしているわけで、なにもない、といった表現は正しくない。しかし、とりあえずのミューズとしてのコンサート活動は行われないだろう、という解釈は一応正しいわけで、そう考えたとき、この無印ラブライバーとは今、どうあることを意味しているのか、ということが気になってくるわけである。
そもそも、無印ラブライブのミューズの9人の声優は、いわゆる「新人」という感じではなく、一定のその当時の、それぞれの分野でのプロを集めて結成されたところがあって、おそらく、そういった意味でも、あまり長期的なビジョンを構想することは難しかったのではないだろうか。
今、彼女たちを「応援」するということの意味は、単刀直入に言ってしまうなら、彼女たちの

  • ソロ活動

を応援する、という意味に関係していくわけで、おそらく多くのラブライバーはそういった方向に進んでいるわけで、それは当然なのだ。このことの意味は、映画版「ラブライブ」の、ある意味でのストーリーが予言している側面もあるわけで、ようするに私たちは、そういった中に、なにか、この物語の「繋がる」萌芽のようなものを探そうとしている。そうすることで、こういった一連のなにかを「意味」あるものと考えたい、といったことがあるのであろう。
例えば、アニメ版では主人公となる、2年生の高坂穂乃果(こうさかほのか)の

  • 対立

的な位置付けとして登場する、3年生の絢瀬絵里(あやせえり)の声優は、南條愛乃(なんじょうよしの)で、私のような人間には、アニメ「とある科学の超電磁砲」のオープニング曲を歌っていたバンド「fripSide」のヴォーカルとして知られていたわけで、もちろん彼女はそれ以前から声優なのだろうが、ともかくも、ミューズの9人の、多様な出自が、この無印プロジェクトを、ある意味で特徴づけていた、といったところがあったはずなのだ。
というわけで、バンド「fripSide」のリーダーが影響を受けた音楽ということで、小室哲哉を挙げていたので、ずいぶんと強引に話を繋げてみたわけだがw(まあ、実際に音楽性にその影響を感じなくもないわけで)、このバンドの曲で一曲だけ挙げるとしたらなにかなと考えてみたんだけれど、このPCゲーム「はつゆきさくら」のオープニング曲かな、と思ったわけであるが:

誰一人も責められずに 悪いのは自分だったと
想い込んで 耐え切れなくって 僕は生まれ変わる 心ごと
fripSide「Hesitation Snow」)

そういえば、このPCゲームのコンピレーションアルバムとなっているわけだが、一つとして知らないPCゲームなのだがw、いかに私がこういった分野に興味がないかが分かる。また、このアルバムの各曲の歌詞が、なんともいえず、物語的なのは、それぞれのPCゲームの内容を、ある程度、意識して書かれていることを意味しているのだろうか?

fripSide PC game compilation vol.2

fripSide PC game compilation vol.2