こういう言い方をすると、いろいろと誤解をされそうであるが、私は今だに、人文系の学問に対して疑念をもっている。それはようするに、
- 自然科学の「比喩」
なのだと、生産する側も消費する側も思っていて、つまりは、最終的には
- なにかの「目的」を達成するための学問
なのではないか、つまり、すべてがポジション・トークなのではないか、と思うわけである。
自然科学の特徴は、基本的には最初から最期まで、
- 五感での「感覚」
に依存している。物が落下するのを見ているときも、氷が水に溶けるときのを見ているときも、その「感覚」が最終的な判断として使われている、ということが
- 合意
されている。対して人文系では、例えば、「信用する」にしても、「権力に服従する」にしても、この
- 会話
をしている人同士で、なんらかの「会話の継続」が実現していれば、それでこの
- 定義問題
は疑問に付せられることなく、
- 会話が続く
わけで、ようするに人文系の学問とは、この「会話が続く」という現象のことを言っているにすぎない。大事なことは、人文系はあくまでも「記号」のやりとりが「成立し続ける」というゲームのことを言っているにすぎなく、最終的なところで、エビデンスがないのだ。
もちろん、このように言うと誤解を与えかねない。例えば、脳神経学を考えてみよう。言うまでもなく、脳神経学は実質的に「心理学」の一分野のように扱われている。その意味は、なんらかの心理学「実験」のエビデンスとして
- 脳のどの領域が「その時」に発火したか?
を使うからというわけだが、よく考えてみるとこれが何を意味しているのかは少しも自明ではない。人文系はここで、
という形で整理されるわけだが、一見するとこれは十分にエビデンシャルな議論のように思われるかもしれない。しかし、そもそもこれは「因果関係」ではない。あくまで「相関関係」にすぎないし、もっと問題なのは、たとえこのような関係が一見成り立っているように「思え」たとしても、そもそもそこにおける「マルマル」が実際のところなんなのかがはっきりとされているわけではない。この関係が成立しているように思われるのは、あくまでもここで議論をしている
- 文脈
において、この会話者と自分との間に、「理解の相違がない」ということを意味しているに過ぎなく、それ以上の含意がないからなのだ。
このように、常に人文系の学問は、ある「ゼロ記号」によって、その全体が支えられているような
- 構造
になっているわけで、果してこの学問は遥か未来の「極限」において、窮極の「真実」に近づいていると言えるような性格のものなのだろうか...。