資本主義を礼賛する鬼畜たち

資本主義礼賛論は、ようするに、お金持ちはどんどんお金持ちになり、貧乏人はどんどん貧乏になり、

  • それでいい

という考え方だと言えるだろう。この場合に、ではなぜ彼らは「それでいい」と考えるのかといえば、

  • 資本主義による「テクノロジーの発展」によって、比較的に下流の人たちでも、昔に比べたら「裕福」な生活ができるようになった

という「過去との比較」でしかなく、そのことが、なぜ現在のお金持ちと貧乏人の「格差」の縮小をやってはいけないかの

  • 説明

になっていない、というところが特徴だろう。つまりこのことは、

  • だったら今以上にお金持ちと貧乏人の「格差」の縮小をやったっていいんじゃないか?

に答えていない。つまり、彼らの主張は常に「消極的肯定」でしかなく、

  • 大きな改革を行ったら、なんか人知を超えた災いが起こるのではないか?

といった「保守的不安」を述べているに過ぎなく(今まで、お金持ちの子どもとして「威張って」いた奴が、平民並みに近づいたら、「いじめ」られるんじゃないか、みたいな)、自分たちプチ・ブルジョア既得権益を守りたい、といった程度のことしか言っていないわけである。
しかし、そもそも資本主義を「肯定」するとは、どういうことなのであろう? このことをよく考えさせてくれる例が以下のニュースである:

ある日、イオンが消えてしまったら......。もはや生活の一部になっている大型ショッピングセンターの代名詞「イオン」の閉店を突きつけられた町が佐賀県にある。「イオンがあるから転居してきた」。そのイオンがなくなる。住民たちの思いと、他県での事例を追った。(朝日新聞鳥栖支局長・大野博)
栄枯盛衰がつきものの小売業界。中でも九州は「安売り競争が特に激しく、生き残りはたいへん」(関係者)という。
そんな中、佐賀県上峰町にある大型商業施設「イオン上峰店」が来年2月末に閉店することが決まった。
閉店決定を受けて記者会見した武広勇平町長の「イオンがあるから、と、この町に転居してきた人も多い」という発言に象徴される通り、閉店が正式に決定したことによるショックは大きい。
「このあたりでは、久留米の街中にでも住まない限り、年をとって車を手放したら生活が成り立たなくなる。銀行のATMから飲食店まで何でもそろうサティが隣にあれば心配ない、と思って越してきたのに」
年金暮らしの高木楠子さん(70)が福岡県小郡市から、イオン上峰店に隣接する上峰町内の「中の尾団地」に転居してきたのは10年前。1996年から2010年まで、前身の「上峰サティ」にテナントとして入っていたシネコンに映画を見に来たこともあり、もともとなじみがあったという。
「いろんなテナントが引き払ってしまい、店内はだいぶさびしくなったけれど、広島に住む娘のところに行くときに佐賀土産のお菓子をぱっと買えるのは便利だった。閉店後はどこで買えばいいのか、見当もつきません」
ある日、イオンが消える……「残された」住民の思いを聞いてみた 業界の競争に揺れる「地方のインフラ」(withnews) - Yahoo!ニュース

こういった現象は言うまでもなく、日本の地方のどこもかしもで起きている現象だと言えるだろう。なぜ人は地方に住むのか? それは、そもそも彼らが、その土地を

  • 所有

していることと大きく関係している。家や土地を私的所有している限り、その「管理」が発生するわけで、彼らが地元で生活することは合理的だということになる。
ところが、である。
その土地は、彼らが住み始めたときは、多くの人で賑わっていた。それは、彼らが生活するのに十分な

  • 生活資本

が揃っていたからである。しかし、そもそも企業とは、自らの「経営判断」で、好きなように行動する存在である。上記のイオンは、この地に参入するときは、あたかも「いいこと」ばかりを言って、現地の小売店をことごとく、倒産に追い込んでおきながら、その時の人々の事情とは、まったくなんの関係もない

  • 自社の都合

で撤退をやりやがる。
しかし、そんなことを行われたなら、その土地に住んでいる人たちの

  • 生活資本

はどうすればいいのだろう? というか、こんなことは国家なり地方公共団体が「起こしてはいけない」のではないか? つまり、私企業の「お金儲け」とは関係なく、地元の人が生活できるようにするための、最低限必要な生活必需品(生鮮野菜や魚、肉などの食材を含めた)は、一定程度は

  • 保証

しなければならないのではないか? そうでなければ、たかだか一企業の胸前三寸で、その地域の人々の生殺与奪を決定される、ということにならないか?
この問題に対して、上記の「資本主義礼賛論者」たちの、想定されうる主張を考えてみよう。
おそらく、彼らはまず

  • 自動車などの個人の「移動手段」の獲得

を重要視することだろう。ようするに、たとえ身の周りにデパートがなくても、デパートがある街まで移動をすればいいし、自動車があれば、かなりの移動範囲が、徒歩での「近所への散歩」レベルと同等の機能を与えるだろう、と。そして、このことは、地方が完全に「自動車社会」となっていることと完全に対応している。
もし、この議論に、なんらかの欠点を指摘するとするなら、おそらく一番大きな欠点は「高齢者」問題があるだろう。現在、自動車の免許の取得に、「高齢」による制限はない(まあ、いろいろ言われているが)。しかし、実質的に、一定の老化と共に、自動車の運転は難しくなる。そうであるなら、上記の問題は、ことこの段階において復活している、ということになるだろう。
しかし、そこで持ち出される議論が、

  • 親の面倒は子どもが見るべき

であるわけだろう。高齢者が移動で苦労するというのは、彼らの「子ども」たちが面倒をみなければならない、ということを示しているのであって、この範囲での

  • 自己責任原則

はなにも変える必要はない、となるわけである。
つまり、このことは何を言っているかというと、「独身高齢者は死ね」である。彼らに「人権」はない。子どもをもつことに失敗した時点で、彼らがこの世に生きている「資格」はない。まあ、暗に「自殺しろ」と言っているのと変わらないわけだw
まあ、こんなところが現在の、地方問題の議論の到達点といった感じでしょうかね...。