文系型子ども哲学vs理系型子ども哲学

私は哲学者の「子どもの頃の思い出話」が大嫌いだ。なぜなら、それがたんに「嘘っぱち」であるだけでなく、害悪だからだ。
よく考えてほしい。その人はもう、「子どもではない」。つまり「証拠」がない。その人は自らそれを「証明できない」ことを述べているわけで、そのことに、なんの恥らいもないわけである。思わないだろうか? それは、大人のやることじゃない、って。人になにかを話すということは、人に「信頼」される、ということを目指す行為であるはずなのに、なぜそんな「証拠もない」ことを、自慢げに話すのか。それを聞かされる周りの人は、それにどう反応したらいいのか? ただ困惑されるだけ、とは思わないのだろうか?
いや。それでもその人は、「本当に子どもの頃、いつも、そんなことを考えていたんだ」と言うわけであろう。まず、そんなに「しつこく」考えていたなら、

  • メモ

が残っているだろう。そうでなければ、「そこまで考えていなかった」わけで、つまり、今説明している文言となんらかの

  • 差異

がある、ということになるであろう。つまり、「嘘」の可能性のあることを、なんでそこまでして「でっちあげて」言わなければならないのか、という疑いが湧くわけである。
しかし、である。
私はこの「子ども哲学」には、二種類あると考えている。そして、一方の上記に対しては、このように、まったく評価をしていないわけだが、もう一方については、非常に重要だと考えている:

  1. 文系型子ども哲学 ... 「なんで僕が僕で他人じゃないのか?」「なんでこの世界はあるのか?」
  2. 理系型子ども哲学 ... 「なぜ数学はこんなにうまくいくのか?」「なぜ科学はこんなにうまくいくのか?」

この二つ種類の「驚き」は、ある意味で完全に「対立」する。というのは、後者の「理系型」の子どもは、結局、数学や科学を、どんどん、どんどん勉強していくことになるので、文系型の「驚き」を<演じる>時間がないのだw
他方の「文系型」の子どもは、最初から科学を「大人の常識」だとして、警戒している。つまり、「文系型」の子どもが「悩む」哲学的問題は

  • 大人に馬鹿にされる

からこそ、「反抗」として意味がある。理解してくれない大人たち。だからこそ、そこに「真理」がある、という構造になっているわけで、最初から、対抗的なわけである。
ようするに、理系型は、数学や科学が「おもしろい」から、こういった「感想」をもつ、という、この関係がはっきりしているし、深く結びついているのに対して、文系型は、そもそも

  • 文系型の悩みについて「考える」ことに忙しい

ために、「数学」「科学」に、基本的にのめりこまない。こういった「数学」「科学」といった、大人の「常識」に、人生の多くの時間を捧げることを、なにか

  • 奴隷労働

とでも考えているみたいで、ほとんど関わろうとしない。この「潔癖」性にこそ、その特徴がある、と言えるだろう。
しかし、である。
よく考えてみてほしい。上記の二つのタイプにおける「文系型」は、本質的なのだろうか?
「理系型」とは、その対象が「自然」だということである。自然を支配して、人間は農業を行い、食料を確保して、生きてきた。そう考えるなら、こういったことに関心をもつことは、必然的だとすら言ってもよい「本能」となるだろう。
だとするなら、「文系型」とはなにか? それは、自然に「関心がない」ということになるわけだが、これって、なにを言っているのか? 自然に関心を示さないということが含意していることは、

  • 他人の「支配」に関心がある

ということを意味する。ようするに、他者を支配することによって、そいつらに自然をなんとかさせる、という野望を含意していることを意味している。
こう考えると、「理系型」は正直者で、努力家ということになり、「文系型」は、寄生虫タイプで、口先で人をだまくらかす、サイコパス気質ということになるだろう。
そして、このことは実際の「哲学」においても、対応していると考えている。
そもそも、哲学とはなにをやってきたのか?
それは、デカルトであれ、カントであれ、

  • 数学

  • 科学

がなぜここまで成功するのか、どのような哲学的な基盤によって、数学や科学の「発展」を担保し、包含する方法的哲学がありうるのかを考えたわけで、ようするに、

  • 数学論

  • 科学論

でない哲学なんて、まず、ほとんど存在しないんじゃないのか、と私は考えているわけである。つまり、「そうでない」と言った時点で、そこには、上記の「他者支配」タイプの野望を含意した詩的な「饒舌」が対応し始める、と考えるわけである(まあ、詐欺師はよくしゃべるよね、って話)...。