日本の「女性に対する暴力」は少ない?

さて。はてブでは、以下の記事が少し炎上しているが:

日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト

ようするに、以下の記事:

日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか? - キリンが逆立ちしたピアス

での、小松原氏による、竜谷大学での津島昌寛氏の発表に対しての「一点だけ疑問を持った」というその点についての、そのセミナーでの津島氏とのやりとりをまとめている、ということのようである。ちなみに、津島氏のワードの資料を pdf 化したものが、

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー – 江口某の不如意研究室

に載っている。
まず、この話に入る前に、2点注意が必要となる。まず、小松原氏本人からの指摘で、上記のブログは小松原氏を「ジェンダー社会学者」から「フェミニスト」に、タイトルを含めて変えている、と言っている。しかし、この変更は、「内容」に影響はないのか? ようするに、フェミニストと自称することに「活動家」であることを自認している、という含意なのだから、ずいぶんと違っているんじゃないのか? 「社会学者」なのに、なんで「統計」的な含意を理解していないのか、といったことが指摘の主眼だったのでは?
次に、そもそもこのブログ主は、少し前の記事で:

東京医科大学は、開き直って統計差別を続けるべき

と書いていて、今だにそれを取り下げていないのであろう。そんな人に「フェミニスト」としての「活動家」の方が、まともに相手をしてもらえると思っているのだろうか?
各大学の入試方法は、各大学が「申告」し、それに照らし合わせて、その妥当性が判断されるものとなっているわけで、受験生には自分が「どういうルールで選抜されるのか」を分かっている前提で、今の入試制度は作られている。つまり、これに反するということは、受験者の受験先の選択において「不利益」を受けることが予想されるわけで、

  • 社会悪

と判断される。そういう意味で、東京医大は、なんらかの制裁を課されても文句は言えない(事実、「補助金」の交付にストップがかかっている)。しかも、このブログ主の言うことに従って、さらに「差別」を続けたら、今度こそ、「廃校」処分とされるであろう。
もちろん、そんなことにでもなれば、医者の男女差wどころか、医者「不足」になると言うのだろうが、少子化だし、ちょうどいいんじゃないですかね。この社会のルールを守ろうとしない大学によって、子どもたちの人生を狂わせてしまうことを考えたら、どうぞ滅びてください、でいいんじゃないか。
この社会のウミを出すという意味で、いっそのこと、差別的な入試を行っていたことがエビデンスから分かっている大学であり、なおかつ、なんの自浄作用も働かず、「開き直って」ルール違反を続けると自称している大学を、かたっぱしから「廃校」処分にして、日本の大学数を少子化に合わせた合理的な数にしていく、いい機会なのでしょう。
まあ。強いて、今の大学制度で「男女差別」が「許されている」仕組みを、あえて考えるとするなら、東京医科大学を男子校と女子校に分けて、それぞれで「好きな割合」で募集をするということになるであろうが、そもそも今の時代に、どんな「理屈」で、大学の男子校や女子校を申請して、それが「差別」じゃないと理由づけするのかっていうのは、なかなか興味深い。戦前は、東大も男子校だったわけで、その流れで、戦後、中学や高校も含めて、エリート進学校で男子校がさまざまに作られてきたが、あの桐蔭学園でさえ、最近、男女共学になったそうで。
さて。最初のブログであるが:

小松原氏は、

性差別が強く性教育が行き届いていない国では、被害者が自分が暴力を受けていてば、それに気づかず、「暴力であること」自体を認知できない。

ので津島・浜井の結論は支持できないと言うのだが、さすがに日本に夫に殴られた事を暴力だと認識できない妻はいないであろう。
日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト

と言っておきながら、その注において:

「いない」は誇張だが、
日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト

と自分で書いたことを自分で「否定」しているw これが

  • 最初

に書いてある、このブログの文章なわけで、なんで、こんな文章に最後まで付き合わなければならないのだろうw この表現は間違っていたと撤回するなり、ここを削除するなりしないで、なにを言っても説得力はないんじゃないでしょうか。
そもそも、このブログ主の「持論」の「説教」なんてどうでもいいわけで、興味深いのは、津島氏の論文であり、それに対する小松原氏の反論がどこまで妥当なのかなわけで:

たとえば、EUの調査のデータを見ると、「女性に対する暴力」の割合は、北欧・フランス・ドイツなどのいわゆる「先進国」では高く出て、東欧などの「発展途上国」とみなされる国は低く出る。では、前者は「性に対する暴力」が蔓延している社会なのだろうか。こういうデータについては、通説として、女性の人権が守られ、十分に性暴力やDVの知識が広まっている国では、被害者が「自分は暴力を受けている」と認知するのがたやすくなる。他方、性差別が強く性教育が行き届いていない国では、被害者が自分が暴力を受けていてば、それに気づかず、「暴力であること」自体を認知できない。つまり、「自分は不当に扱われている」ということを自覚しにくいのである。そのため、「女性に対する暴力」の割合が高い国は、「女性に対する暴力」についての情報発信や支援制度の樹立が進んでいると解釈されるのである。
これについては、津島さんはEUのデータについては、私と解釈を同じくしていた。
日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか? - キリンが逆立ちしたピアス

ようするに、ここまでは、ヨーロッパについては、この小松原氏の解釈に津島氏は「賛成」しているが、ではなぜ「日本」は特別なのかということになるが、それを津島氏は、日本側だけで行った「あるデータ」に関係して主張している:

私のその指摘に対して、津島さんは、日本の調査では女性が「自分の被害」だけではなく「身近な人の被害」についても「聞いたことがある」と答える割合が低いことから、日本社会においては「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」ことが裏付けられると説明する。
日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか? - キリンが逆立ちしたピアス

ようするに、ここで津島氏は「推論」を使っている。しかし、この推論が成功しているのかどうかを、同じように「推論」で判断しようというのは、そもそも違和感がある。なぜなら、だったらたんに

  • ヨーロッパ側

にも、同じ質問をすればいいんじゃないのか、としか思わないからだ:

もし、身近な女性対する暴力を、女性が耳にする機会が少ないというデータが、「女性に対する暴力」の実数が少ないことを裏付けられるならば、それは国際比較調査によって実証されなければならない。
日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか? - キリンが逆立ちしたピアス

そもそも私がこのブログの議論に興味をもったのは、津島氏のワードの概要資料を見たからだ。そこには、上記で議論になっていることだけでなく、いろいろとまとめられている:

15歳以降、パートナーから受けた最も深刻な暴力を警察に通報した女性の比率:日本0%、ヨーロッパ平均14%
15歳以降、非パートナーから受けた最も深刻な暴力を警察に通報した女性の比率:日本12%、ヨーロッパ平均13%

あのさ。こんなに極端な

  • 日本とヨーロッパの差

がでているのに、どうして上記のブログの議論では

  • 日本とヨーロッパの比較

が「可能」っていう「結論」にいたれるんだろうね? ようするに、この津島氏の概要資料はいろいろな論点が存在した上で行われているものなのであって、まずは、そういったものとして受けとるところから始めないと、どうしようもないのではないか。
少なくとも上記で引用した結果から推論できることは、日本社会が

  • (学校や家族などの身近な関係においては)暴力に「寛容」

だということではないのか?(または、それに言及することに強烈なタブーがあるとか) だから、単純に「警察に通報した」比率で、日本とヨーロッパの暴力の「多寡」を比較することの

  • 意味

に違和感を小松原氏が抱くのは、当然なんじゃないのか、ということなのでしょう:

それが日本の伝統的な子育てなんだからしょうがないだろ、と思う人もいるかもしれないが、実はそうとは言い難い。実は戦時中に「一人前の大人」となった人たちは、これまでの日本の伝統的教育とかなりかけ離れた教育を受けている。それは、軍隊のマネジメントを取り入れた「軍隊式教育」ともいうべきものだ。
日本人が「ある程度の暴力は必要」と考える、根本的な原因 (1/7) - ITmedia ビジネスオンライン

なぜ日本社会が長い間、「暴力」に

  • 寛容

であったのかを考えるとき、そもそも、日本社会が太古の昔からそうであったのか、というのは一つの論点であるはずだ。そう考えたとき、一つの大きな存在として、戦前の

  • 学校の「軍隊」化

を考えざるをえない。なぜ日本社会が学校から家庭内から「暴力」に「寛容」であったのかを考えるとき、そもそも義務教育において「軍人」が介入してきた戦前から、戦中の歴史がある。そして、そう考えたとき、日本の「非暴力」化が大きくなっている、という指摘は

  • 戦後の徴兵制の廃止

がもたらしてきた結果だと言えなくもない。事実、今の若い夫婦は、ほんとに子供を「怒らない」。それは、だから「非暴力」化が「完成」したことを意味しない。ようするに、そこには

  • 隔世遺伝

がある。親の暴力を受けた子供は、また、その子供に暴力をふるってしまう。しかし、漸近的にはその「暴力」衝動は収束していくのではないか、と考えることは、そこまで突飛な仮定ではないだろう。というのは、ようするに、この日本の

  • 学校の軍隊化

以前の日本社会がどうだったのかを考えればいい。もちろん、そこまで遡れば、さまざまな身分差別や貧困に起因した「暴力」が社会に広く存在しただろうが、少なくとも上記の「学校」に起因した「暴力」の「寛容化」とは違った社会であったことは容易に想像できる。
しかし、こうやってWW2以降、日本は大きな戦争に参加してこなかった事実を前にして、日本の

  • 平和化

とするなら、その「努力」と並行して、日本社会の「非暴力」化も漸近的に進んできたと考えることはできるだろう。
しかし、逆に考えるなら、

  • 徴兵制

の復活、つまり、日本の軍隊化が必然的に日本の「暴力」に「寛容」な社会化へのバックラッシュをもたらす可能性のあることを意味しているとも考えられる。ようするに、そこにある

  • 本質

はなんなのか、ということなのであろう...。
(例えばそれは、戦前の「皇国教育」の「復活」の蓋然性を考えることとも関係しているだろう...)。