哲学と数学の関係

そもそも数学は、数学基礎論や数理論理学が示してきたように、

  • 無定義述語

によって構成される

  • モデル理論

になったわけで、あとは「それ」がどういった構造を表現していると解釈できるのかに還元されてしまった。
このことは、かなり本質的な話になっていて、ようするに、物理学だろうと、「哲学」だろうと、あらゆる理論は原理的には、

  • 数学に還元できる

ということが示されれしまったのだ。ようするに、どんな物理学や「哲学」の「理論」も、数学によって形式化できてしまう(モデル化できる)ということは、少なくとも言えてしまえているわけで、つまりは「理論」の「数学化」は完成している、ということになる。
このことを、けっこう深刻に考えている人は、まず、物理学なり「哲学」で、なにか

  • 新しい

ことを主張していると、主張されている「理論」を、こういった形で数学で

  • 形式化(無定義述語を使ったモデル理論化)

をされてみればいい、ということになる。そうすると、その数学の理論は

  • 新しい数学の理論

なのか、よくある数学の理論に含まれるのかが分かるわけだが、ほとんどが後者になるだろう。
(数学においても、まったく違った出自から生まれた二つの理論が、ほとんど同じような数学モデルで記述されることがある。その場合、数学としては「同じ」として扱うわけである。このことは、けっこう本質的な部分を突いていて、もちろん、いろいろと条件を追加していけば、いろいろ違っていることは分かっているんだけれど、そういった「差異」は本質的じゃない、ってことなんだよね。)
このことは、物理学の方の人は分かっていて、新しかったものを強いて挙げれば、ファインマン積分とか、そういうもので、まだ、その物理表現に対応した数学の理論ができていない、ということになるのだが。
対して、「哲学」の方になると、そもそも彼らって、

  • 詩人

ですよね(今だに、学術論文をピア・レビューもやらずに「比喩」だとかぬかしている連中のことですけどw)。だから、なんか他人の情感に訴えられるかにしか興味がなくて、形式化とか考えたこともないんじゃないのだろうか? だいたい自分を「哲学者」とか「自称」している人って、頭悪いですよねw