校則は「法律違反」か?

まあ、あまりどうでもいい話ではあるのだが、以下のブロゴスの記事を読んでいて:

「"バイク止める場所がないので敷地内には入らないでください"というようなのは施設管理権の行使だが、"校則に従わなければいけない"という法律はない。だから例えば"髪の毛を黒にしましょう"みたいなの校則に対して無視しろとは言わないが、"法的根拠はなんですか?"と聞けばいい。法的根拠が説明できなかったらただのポエムでしょう」とキッパリ。
憲法学者・木村草太氏「法的根拠のない校則は学校が作ったポエム」

いや、こう言うのはいいんです。しかし、だったら「法律違反」で訴えて、実際の

  • 加害者(現場の教師であり、彼らを許していた国家)

を牢屋に入れて、被害者である子どもたちに名誉回復と慰謝料を与えたらどうなんだ、と聞いているわけであろう。ところが、木村草太先生の発言は以下に続く:

実際、長女に小学校で行われている朝の朗読を聞きたくないと相談されたため、電話したこともあるという。「"強制です"って言うし、争っても聞いてくれなかった。ありえんと思ったけど、自分でもボランティアとして本を読みに行くようにした。でも、そこで子どもたちと作った話をした。こないだは、副校長先生をプールに突き落としたら女神が現れて"あなたが落としたのは金の副校長先生ですか、銀の副校長先生ですか"と尋ねたという話を(笑)。そうしたら、校長先生に"ちょっと待ってください。本気にされたらどうするんですか"と言われた。この歳になって校長室に呼び出しですよ(笑)」。
憲法学者・木村草太氏「法的根拠のない校則は学校が作ったポエム」

ようするに、木村先生は「真面目に答えていない」のだ! 校則が法律違反であろうがなかろうが、別に、そのことで彼自身が裁判所で争おうとはしない。現場で、無碍に扱われると、唯唯諾諾と従っているだけ。だったら、何も言わない方が、よっぽど誠実なんじゃないのか、と皮肉も言いたくなるわけだ。
しかし、少し調べてみると、法律の世界でも、こういった問題は議論されてきたようで、特に戦後は一般には以下のような説明がされるようである:

部分社会論を正当化する根拠の一つとしては当該個人がその団体すなわち部分社会に入るか否かの自由を有していることが挙げられる。
すなわち、その団体が独自の処分権限を有することを事前に承認した上でその団体に入り、その承認した手続に基づき処分されたのであるから、その点においては事前の同意があるといえるからである。
また、同時に部分社会として認知される団体は人的集合体であるから、その団体内で規律を保つために規定や手続を定める必要がある。そこで、その手続に一定の合理性がある限りその手続を承認して団体に入ったものはその適用を受ける、という考えに基づく。
なお、部分社会論を肯定することは法多元主義の考えを肯定することになり、法一元主義の考え方からこの理論を肯定することは困難であると考えられる。
部分社会論 - Wikipedia

学校によっては、校則がないところもあるのだそうである。つまり、一般社会に校則などないのだから、いらないんじゃないのか、と考えることは、それほど不思議ではない。もしも、文科省が全国の学校に「一律」で、なんらかの「ルール」が必要なら、それは校則という形ではなく、卒業資格のように、学校の「設立条件」や、学校運営の「免許」「資格」のような形で一定の法的な体裁の下で、指示すればいいということになり、それは当然、「法的根拠」をもたなければならない、ということになるであろう。
しかし、一般に、あらゆる「私法」つまり、村の掟のような、各共同体のルールを、それが

  • 法律から「論理的」に導きだされる内容でなければ法律違反

と言うことは、(おそらくは、それが「法一元主義」なのだろうが)現実のこの世界の有り様と一致していないように思われる。そもそも、国家が成立する以前に、

  • 村社会

は存在するのであり、国家が滅びようが村社会は続くわけで、国家が「自治」にどこまで介入を許すのかは、そんなには自明なことではないように思われる(そもそも、「法一元主義」は、個人を、たんに、その地域に住んではいるが、それは行政整理上、どこかの地域には所属していなければならない、くらいの理由でしか考えていなくて、生きることが、その地域社会に「コミットメント」する行為だ、といった考えが希薄なんでしょうね)。
そういうわけで、上記のウィキペディアの記述で、最後の法多元主義と、法一元主義の主張が気になりはするが、いずれにしろ、木村先生には、校則の「法的根拠」はなんなのか、について、ぜひ答えてもらえないですかね。自虐ネタで、ごまかすんじゃなくてw