価値中立的な社会体制

少し前に、杉田水脈議員による、例の「生産性」発言によって、最終的には、雑誌「新潮45」を休刊に追い込み、今は彼女自身も、活動を自粛し、おとなしくしているようだ。
しかし、彼女の問題は、それ以前から、さまざまに言われていたわけで、彼女は別名「平成の蓑田胸喜」と呼ばれていたわけで、その相貌については、以下のリテラの記事が分かりやすいのかもしれない。

杉田議員は、2月26日の予算委員会分科会での質問のなかで、科研費について取り上げ、大学教授の実名をあげながら「徴用工問題が反日プロパガンダとして世界にばらまかれている」「日本の科研費で研究がおこなわれている研究の人たちが、韓国の人たちと手を組んで(反日プロパガンダを)やっている」などと批判。「なぜこんなことになっているのか文科省は真相究明を」などとまくし立てた。
さらに自身のTwitterでも、科研費助成事業のデータベースのURLを貼り付けながら〈人名を検索すれば誰がどんな研究で幾ら貰ったかすぐわかります。「慰安婦」とか「徴用工」とか「フェミニズム」とか入れて検索もできます。ぜひ、やってみてください!〉と投稿。ジェンダー論を専門にする牟田和恵・大阪大学教授に噛みつき〈慰安婦は捏造。慰安婦問題は女性の人権問題ではない。税金を反日活動に使われることに納得がいかない〉などと攻撃を繰り広げ、フォロワー数約4万の影響力をもつ「CatNA」氏もこれに加担。その結果、牟田教授が所属する大阪大学にはクレームの電話が入るなど、バッシングに晒された。
安倍応援団やネトウヨが仕掛けた「バッシング」をMBSのドキュメンタリーが検証! 予想以上にデタラメな正体が|LITERA/リテラ

彼女がなぜ、蓑田胸喜と比べられたのかは、非常に重要で、彼女は「国会」において、大学教授の「研究」内容を

  • web検索

することによって、その研究内容によって、その教授を

  • 大学から追い出す

ことを自らの「政治活動」の

  • 使命

と主張した。彼女は自分が、そういった web検索によって「悪」と判断した学者を、一人一人、つるし上げて、

  • 飯のネタ(食いぶち)

を取り上げること、このことが自分がなんとしてもなしとげたい、という使命だと宣言したわけであろう。
まあ、完全に蓑田胸喜なわけであるw
この相似性には何があるのだろう? 蓑田胸喜の活動における重要な要素は、相手の

  • 内面

を「悪」であり、「罪」として糾弾したところにある。彼は、大学教授を次々と、大学からの「退職」に追い込む。それは、そういった教授の「内面」が

であり

であり

であるといった「自明性」において、その「悪」を「駆除」するまで、絶対にこの運動を止めなかった。
しかし、である。
こういった彼の「活動」は、最初は文部省や軍部の「悪ノリ」もあって、あおられていたのであろうが、戦局の悪化が進むにつれて、だんだんと日本社会は、彼を「まとも」に相手にしなくなった。
しまいに、彼は地元の田舎に疎開をし、戦後、すぐに首を吊って自殺をする(この辺りのいきさつは、立花隆の『天皇と東大』を読んでいる人には、彼が晩年、完全に「鬱病」として描かれていたことを思い出すわけだが、蓑田の遺族に抗議された関係で、最新版は伏せ字になっている、とウィキペディアには書いてある。まあ、同じような状況が、今の杉田水脈議員の態度にもうかがえるのかもしれない)。
さて。
こういった、蓑田胸喜の問題などの「反省」の下に、戦後憲法が作られたわけだが、どういった特徴が対応してあるのかというと、それが

  • 信教の自由

に象徴されている。ようするに、

  • 人の「内面」に介入しない

ということこそ、「戦後」の日本を象徴しているものはないし、これこそが

  • 近代国家の基本

として解釈された。
大事なポイントは、いわゆる「ポストモダン」が近代を否定するとき、彼らがこの「前提」に戦いを挑んだ、というところにポイントがあることだ。ポストモダンはカントを仮想敵とした。その意味は、「人間の尊厳」や「人権」や「啓蒙」といった

  • 近代社会

の前提条件を「疑う=闘う」という形で始まる。彼らは、カントが「時代遅れ」であることと一緒に、「人間の尊厳」や「人権」や「啓蒙」が否定された「非近代社会」こそが、ポストモダンの「条件」である、という形で形式化する。
ところで、戦前の日本においても、言うまでもないが上記の「価値中立的な近代社会」を主張した人たちはいる。しかし、そういった人たちと、

は見事に、一致する。具体的には、憲法学者の美濃部逹吉であり、古代史学者の津田左右吉であったわけであるが、いわゆる「天皇機関説」を認められるか、認められないかは、蓑田胸喜の「国体明徴運動」の非常に分かりやすいメルクマールとなった。
天皇が「機関」である、と言うとき、それは、私たちは

  • 「内面」が不透過である

と扱うことと、実際のところ一致する。天皇が「機関でない」と言うことは、天皇の「内容」において、私たちが、その評価において、「選別」されることを意味し、天皇の名の下の、

  • 排除

が可能となる。天皇が「機関」でないということが、天皇

  • 内面

の自明さを意味し、そのことが私たちの内面の「自明」性を導出する。
このことは、フロイト派の心理学、精神分析において、最も先鋭化する。
フロイト精神分析とは、

である。つまり、生得的であり、アプリオリであり、遺伝子決定論は、フロイト精神分析の「無意識」と同値の意味になる。
ようするに、

なのだ。大事なことは、意識と「意識の外(感情=本質)」といったときに、実際には、「意識の外」が意識を決定している。つまり、

になっていることで、ようするに、この理論自体が

  • 人の内面に介入する

ことを自明に、「やっていい」こととして倫理化している、ことにある。
心理学、精神分析は、その人が、どんなに論理的に話しても、合理的に説明しても、そういった「内容」に興味を示さない。そうではなく、その人の

  • 本性

が、別に「存在」して、そういった「理由」を決定していると考える。つまり、一種の

となっている。「あなたの内面は実は、こうなんですよ」と。「これは科学ですから否定できませんよ」と。「私はあなたの内面を教えてあげます」と。
例えば、「哲学」とはなんだろう? おそらく、哲学者の「夢」は

  • 全体性

を語ることなのだ。しかし、である。ITの分野において、Windows に二分する、OS の一大勢力が linux なのであり、その母体となったのが

  • UNIX(ユニックス)

であった。このOSの特徴は、「マルチックス(Multics)」と呼ばれていたOSを反面教師として生まれたことからも分かるように、その特徴は、徹底した

  • 独立性

にこそあった。つまり、「反全体性」にこそ、このOSの本質があった。それ以前のOSは、全体を考えることは当たり前であった。なぜなら、そうすれば「コスパ」最大を実現できるから。つまり、「合理性」を考えれば考えるほど、システムは複雑にあり、隘路に迷い込んでいった。
UNIX はこの問題を完全にブレークスルーした。UNIX の特徴は、各コマンドが、まったくもって「独立」しているところにある。つまり、「なにか」を実現することは、各コマンドを「パイプ」で「繋ぐ」ことを意味したわけだが、そこにおいては、それが「コスパ最強」かどうかなど、どうでもよかったのだ。大事なことは、ある「性能」と、別の「性能」が、

であることであって、「だから」柔軟な「結合」による、多様な出力を可能にした。
例えば、少し前に紹介した、カントを「キリスト教」に還元する本があった。カントはキリスト教徒なのだから、きっとカントの言いたいことは、キリスト教で「説明」できるはずだ、と。
しかし、もしもそうだったとしたら、非常に困ったことになるわけである。それは、カントの主張の最も重要なポイントに、

  • 学問と信仰の「独立」性の証明

があったからだ。カントは、学問は信仰とは「独立」して行える、と主張した。「だから」私たちは今、この

  • 近代国家

を生きているわけであって、そういう意味では、ポストモダンはトンチンカンなことを言い続けているわけである...。