なぜ「自由貿易」条約は成立するのか?

江戸城無血開城から、明治政府の成立までに、イギリスの外交官が深くこの過程に関わっていたことは今では知られている。そして、その一人として、アーネスト・サトウという人が、まあ、彼の外交官の間の日記のようなものが、岩波文庫にもなっているわけで、まあ、日本の歴史を学んでいる人で知らない人はいない、と言っていい人なわけであるが、この本は、孝明天皇暗殺説が記述されていることもあり、日本では完全に

  • タブー

のようになっていることもあり、まあ、だれも読んでいないのだ(あれだけ、幕末の大河ドラマがたて続けに作られたのにも関わらず、である)。
最近、元外交官だったという、孫崎さんが、このアーネスト・サトウに注目をされた本を書かれて読んでいるのだが、むしろ読んでいて考えさせられるのは、

  • 条約

とか、

  • 外交官

といった「人たち」の「生態」が、一体、どういったものなのか、といったような所にこそ、理論的に考えさせられるわけで、正直、そういった視点のない、

  • 内向き(=国内権力バランスにしか興味のない)

な議論で、この本を見たら、おそろしく「つまらない」内容にしか思われないのだろうな、と考えるわけで、ここは非常に重要なポイントなのだ。
よく考えてみてほしい。
どうやったら、「自由貿易」条約は成立するのだろう、と。それは、なぜ、ここにアーネスト・サトウがいるのか、とほとんど同じことを意味している。

しかしこうした考えに、オールコック駐日大使が反論していました。
「条約を締結した諸国によって、この問題[日本が鎖国をすることの是非]はすでにはっきりと決着を見ているにすぎない。----中略----
日本をふたたび鎖国にすることは絶対にできないことだからである。通商によって、相競っている諸国と相争う利害関係によって、門のちょうつがいははずされたのである。いまとなっては舞台から退場するわけにはゆかぬほど深入りした西欧諸国が多いし、それにこれらの国のどれひとつをとってみても、日本人がどうやってみたところで力ずくではとうてい追い出せないほど強力だ」。

アーネスト・サトウと倒幕の時代

アーネスト・サトウと倒幕の時代

イギリスは、基本的に日本の政治に「干渉」しない、というスタンスを貫いていた。ところが、である。上記にあるように、彼らには、ある

  • 一線

があるわけである。いろいろ「選択」の範囲はあるだろうが、「これ」だけは飲んでもらわなければならない。そうでなければ、

  • 力づく

ででも行わせる、と。
おそらく、多くの人が素朴に思う、幕末の政治への「疑問」は、なぜ日本は

を続けないのか、に関わっていたのではないか、と思われるわけである。現代の「常識」からは、「鎖国」があまりにも

  • 異常

だと言いたいのは分からなくはない。しかし、そうやって「植民地主義者」に、好き勝手で振る舞われたインディアンや、インドのような国は、ことごとく

  • 植民地国家

になった。日本はこれが嫌だったんじゃないのか?

ジャーディン・マセソン社」は一八三二年に広州で設立された会社で、アヘンの密輸を行っています。
阿片戦争は「ジャーディン・マセソン社」と関係しています。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際、阿片商人のジャーディン・マセソン商会は活発なロビー活動を行います。これによって、イギリス本国の国会は九票という僅差で軍の派遣を決定したと言われています。
ジャーディン・マセソン社」は、幕末、明治に、ちらちらと日本政治に介入する姿が見えます。
伊藤博文(俊輔)井上馨(聞多)等の五名、俗称「長州五傑」が一八六三年、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した時に、マセソン社が便宜を図っています。
アーネスト・サトウと倒幕の時代

グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立し、坂本龍馬岩崎弥太郎等を支援しています。
ジャーディン・マセソン商会」は幕末だけでなく、明治時代にも日本政府と密接な関係を持っています。
アーネスト・サトウと倒幕の時代

あのさ。そもそも、日本の「攘夷」運動は、中国における「阿片戦争」の日本への

  • 拡大

を防ぐ、という「目的」があったんじゃなかったんですかね? それがなんで、「阿片」攻撃の大本と

  • グル

になってんの。恥を知れって思うんですけど(怒。ようするにさ。伊藤博文でもいいけど、明治政府は「阿片戦争」における「阿片」を使って中国人を

  • シャブ中

にしたお金で、できたんだよ。こういうのを見せられるたびに、孝明天皇のように、最後まで徹底して「攘夷」を主張した人たちが、それほど間違っていたのか、ということに私は考えさせられるんですよね(つまりは、カントの言うように、「鎖国」政策がそこまで悪い政策なのか、っていうことなのだが)。
なぜ、幕府が負けて、明治政府が誕生したのか? それは、単刀直入に言ってしまえば、上記のグラバーが薩摩と長州に、

  • 武器

を売ったことで、戦力バランスが崩れたから、なわけでしょう。まさに、ヘーゲルの歴史哲学そのものを地で行くような結果なわけで、これだけでしかない。つまり、なんの

  • 正義

がなにかも関係ない。ただただ、「強い武器を持っていた」から勝った。すげーよな。アヘン商人から武器をゆずってもらって、魂を悪魔に売って、日本を手に入れたってわけだ。
しかし、なんでこんなことになっちゃったんだろうね...。

慶喜の対談集に渋沢栄一編集『昔夢会筆記』があります。聞き手は渋沢栄一阪谷芳郎(明治政府で大蔵大臣等歴任)等。
「阪谷:朝廷と幕府の間が面倒になったのは、やはり条約の勅許を幕府から請うたのがはじめでございますか。それより前に何か朝廷の方から干渉があって......。
慶喜]公:それより前は、朝廷ではすべて政治のことは口をお出しにならずにいればよい、口を出すと面倒だというので、----中略----まあ関東の方の希望だ。ところで、井伊掃部頭、あの暴断が始まって志士を殺した。それで四方の志士が皆憤激したのだ。----略----
阪谷:すると幕府の方から勅許を請うたのがはじまりで......。
公:----略----関東へお任せになっている、お任せになっているのだから、ここは国を開かなければならぬといえば、国を開いてしまってよいのだ。国を開いてしまって、朝廷へこういたしたと言えばそれでよい。しかるところが幕府が弱かったのだね」。
アーネスト・サトウと倒幕の時代

そもそも、鎖国をするときに、天皇にお伺いを立てていないのだから、鎖国を止めるときも、天皇にお伺いを立ててはならない。これを「やった」という、たった一つの

  • 愚行

によって、徳川幕府は滅びてしまった。それ以降の全ての内乱は、この一事の解釈を巡って繰り返されたと言っても過言ではないわけで、なんとも罪深い、と思わなくもない。
例えば、アーネスト・サトウでネットを検索すると、

楠家重敏「サトウの英文論説と「英国策論」」
JAIRO | サトウの英文論説と「英国策論」

という論文が、すぐにヒットする。この論文が興味深いのは、孫崎さんの本で何度も言及される。アーネスト・サトウの『英国策論』について、かなり詳細に論じられているからだ。
というか、そもそも、これはアーネスト・サトウが、「Japan Times」という、当時の雑誌のようなものに寄稿した三つの論考を、「翻訳」したものであって、幕末に多くの志士に読まれたことが、アーネスト・サトウが、さまざまに幕末に大きな影響を与えられたことと繋がっていると考えられるわけであるが、ようするに、その3回のうちの1回目と3回目の、日本語現代語訳が末尾に転載されていることが、興味深いわけである(2回目がないのは、それに該当する「Japan Times」の雑誌自体が見つかっていないということで、代わりに、その個所に該当すると思われる『英国策論』の個所が載っている)。
これを読むと、1回目のエッセイであるが、「徳川幕府」の征夷大将軍には「大君」の地位はない。せいぜい、江戸周辺にしか影響力がない、と断じていることであろう。つまり、日米修好通商条約

  • 前提条件

を「否定」しているわけである。しかし、孫崎さんの本でもうかがえるが、アーネスト・サトウ自身が、この論文を書く前の、つい1年くらいまで、彼はそこまで、過激な思想ではなかった。
つまり、どういうことかというと、これが「長州」や「薩摩」の影響というより、ようするに「イギリス国家の意志」を、かなり汲んで書かれている、ということが分かるわけである。イギリスは、建前上は、内政干渉を行わない、としている。しかし、実際には、こういった形によって、不規則的に、住民に「圧力」をかけてくる。
アーネスト・サトウのこの論文の趣旨も、なにを根拠に征夷大将軍の「大君」としての地位への疑いを述べているのかと言うなら、ようするに、上記での条約締結時に、「愚か」にも、天皇に「お伺い」をやってしまった「事実性」や、現在こうやって、イギリスが地方の薩摩や長州に「金銭援助」を、徳川幕府

  • 関係なく

行っている「事実性」において、「あんたたちのガバナンスは効いてないね」と言っているわけでしょう。
こと、ここに至ってしまっては、今度は、その

  • 契約

の「中途半端」さが、むしろ、海外の「自由貿易」者たちの「身分」を脅かす、という方に力点が置かれている。
なぜ「条約」が「効力」をもつのか? それは、その条約を結んだのが、

  • その国のトップ

だから、ということになる。だから、国民の全員が「従わなければならない」といった態度になって、海外貿易者の「人権」が守られる。もしも、征夷大将軍が、この国の「国王」でないなら、本当の国王が条約を結ばなければ、海外貿易者は

  • 恐くて町を歩けない

わけである。
このように考えると、条約に「何が書いてあるか」は重要である。そのことを最もよく示しているのが、アーネスト・サトウの上記の3回目の論文が、さまざまな条約の条文の細部に渡って、いかにこれらが自分たちにとって

  • 不利

であるかを語っていることに窺える。
なぜイギリスは、世界中の野蛮国で、「貿易」ができたのか? それは、この「条約」に秘密がある。ここに何が書かれているか。どうやって、この「条文」に、現地の野蛮人を従わさせるのか、に彼らが

  • 熟練

していたか。この「技術」において、イギリスは世界中のどこの国よりも優れていた。そういう意味では、日本はイギリスの「植民地」を免れていたのではない。実質的には、イギリスの植民地として、傀儡政権として、イギリスに利用され続けた、と考えるべきなのであろう...。