河野裕『きみの世界に、青が鳴る』

この階段島シリーウを今まで読んできて、この作品のテーマとしての、

  • なにかを<捨てる>ことなく<大人>になれるのか?

つまり、成長できるのか? 子どもが大人になることの、その「汚なさ」への抵抗をどこまで徹底できるのか、ということでは興味深く読んではきたのだけれども、こうやって最終巻を読んできて、どうも一点だけ違和感を覚える。
それは、まさに「真辺由宇(まなべゆう)」問題なわけだ。
しかし、基本的に、「真辺由宇(まなべゆう)」問題、つまり、彼女の純真さ、そして、それゆえの、真っ直ぐさ。もっと言えば、

  • 正義の貫徹

を一つとして「あきらめない」こととして象徴されているわけだけれど、まさにそれが、

  • なにかを<捨てる>ことなく<大人>になれるのか

と関連して、問題提起されているわけだけれど、まあ、これはいいわけです。問題は

  • 「相原大地(あいはらだいち)」問題

の方なんですね。以下は、真辺によるシュミレーションの中でのことであるが、真辺が大地の母親に、夢の中で大地への子育てが父親もいて、彼女自身も優しかった日常だった形で、見させた後の朝の場面で、ここで母親は大地に暴力を振るうわけであるが、大事なのはそのときの大地の反応である:

大地の方も、美絵さんが普段とは様子が違うことに気がついたようだった。
彼はじっと母親の顔をみつめて、ほんの一瞬だけ覚悟を決めるように真剣な顔つきになって、すぐほほ笑んだ。
「大丈夫だよ」
と大地は言った。
「お母さんが、優しいのは知っているから、僕はどこにもいかないよ」
現実ではないこの世界では、私は魔法によって、彼の頭の中を覗くこともできた。彼の考えをまるで自分の思考のように理解できた。
大地は自身の言葉が、美絵さんを傷つけると知っていた。我が子に優しく守られるのが、美絵さんにとってどれほどつらいことなのか、彼は理解していた。
胸に刻まれた傷を、美絵さんは怒りと苛立ちで埋める。その蜃気楼のようでも巨大な感情で、彼女はどうにか生きている。
美絵さんは大地をにらみつけ、右手を振り上げた。
彼女が大地に直接的な暴力を振るったのは、この朝が初めてだった。一〇年近くの幸福な夢が彼女をひどく混乱させ、苦しめていた。美絵さんの右手が大地の頬を打つ。自身への悔しさと、苛立ちと、目の前の少年への愛情と懺悔が交じり合い、矛盾する衝動で、ぱちんと乾いた音が響く。
それは誰にとっても間違った音だった。でも大地自身が望んだものだった。
----ああ。彼は。
長い時間を経て、愚かな私もゆっくり気づきつつあった。
----お母さんが変わることを、求めているわけではないのだ。
そのまんまの母親を、そのまま愛している。なら私がしていることはなんなのだろう。
一度だけ頬を抑えて、そのあとは何事もなかったかのように、大地は学校にく準備を進める。ランドセルを背負って、小さな声で母親に「いってきます」と挨拶をして、玄関を出ていく。マンションの一室を残された美絵さんはベッドに顔をうずめて泣いている。
私はなにか、根本的なものを間違えている。これまでの私のすべては、無意味だったのかもしれない。

相原大地は小学生である。この少年が、両親のいっぱいの愛に包まれて大人になっていくことは、一見すると、

  • あるべき

ことのように思われる。事実のように思われるし、真辺もそう考えて、何度も大地と母親の関係が幸せになるためのシュミレーションを繰り返す。
しかし、そうだろうか?
というのも、そもそもなぜ、そうで「なければならない」ということが前提になっているのか?
むしろ、ここには真辺の「幼稚さ」が、剥き出しになっている印象を受ける。
大地の母親は、大地の父親の死の後、少し精神がおかしくなる。大地を愛せなくなる。しかし、そうだからといって、なぜ「それ」が変わらなければならない、となるのか?
今、この日本においても、例えば、脳出血などで、意識の障害を抱えている人はたくさんいるだろう。そういった人に、たんに、子どもの父親であり、母親である「から」、

  • 健康

になって、子どもの「世話」を

  • 愛情

をもって「行為できなければならない」というのは、真辺は、なにかを根本的に勘違いしていないだろうか?
私たちは、ここで母親の美絵という人間を、果して、一人の人間として見ているのかが問われているのではないだろうか? 彼女は母親なんだから、こうでなければならない。それは、そもそも彼女を一人の人間として見ることなのだろうか?
私はこの作品は、そういう意味で、完全に「失敗」していると考えている。
ようするに、作者は、真辺のこの「正義」徹底追及の、一つの

  • モデル

として、彼女が徹底して取り組めるような

  • 絶対的な正義

というものを探して、大地の母親のDVを選んだわけだけれど、しかしそれは、あくまでも大地への「暴力」においてのみ探求されるべきだったわけで、つまり、別にそれは、彼女が母親かどうかは関係なかったはずなのだ。しかし、作者はこの議論を

  • 母親がこんなじゃダメ

という形で、「子育て論」にしてしまったがゆえに、今度は作者は、彼女を「一人の人間」として考える視点を考慮した形にできなくなってしまった(まあ、そう真辺を振る舞わせてしまった、ということ)...。

きみの世界に、青が鳴る (新潮文庫nex)

きみの世界に、青が鳴る (新潮文庫nex)