私は実在論がなにか分かっていない:補足1「モデル論」

上記で終わりにするつもりだったが、もっと素朴な、分かりやすい違和感を、端的に書いておきたくなった。そういった視点でネットを眺めていると、非常に分かりやすくまとめてくれているブログ記事があった。
さて。この一連の論考で、私は植原先生の「実在論」について検討してきた。そして、それについて私は、結局のところ、植原先生の言わんとしている「実在論」とは

  • 科学の一つの方法

の、ある側面を記述している「だけ」だ、と喝破させてもらった。つまり、植原先生は一見「実在論」について書いている、という表向きをしていながら、その実は、

  • 科学の成果

のことを、「実在」と<言い換え>る、そういった、一種の「マジック」を見せている、と解釈できる。
しかし、である。
この二分法は、そもそも一般的ではないし、非常に誤解を招きかねないレトリックだ、と言わざるをえない。一般に、「実在論」と言うときは、次のような二分法で考えるのが普通なのだ。

つまり、どういうことか?

(科学理論=実在論
この世界には何らかの実在や物理的な現実があり、人間はそれを正しく知ることができ、科学とはその実在を発見するものである。科学の理論は、自然の実在をそのまま表現したものである。科学の理論の述べるところがそのまま実在する。【科学理論⇔実在】――という考え方を、実在論と呼ぶことにします。
(科学理論=モデル論)
科学とは世界(自然)をうまく説明できるモデルを、仮説や理論として立て、それがうまくいくかどうかを観察や実験で(感覚的知覚によって)検証し、それがうまくいっている限りそのモデルを使っていく。そのモデルがいろいろな場合にうまくいくか、それが(感覚的知覚の領域で)相変わらずつじつまが合うか、ということが重要な問題で、それを超えて、その理論がそのまま実在であるとか、人間が実在を把握できるかどうか、というような(哲学的な)問題には、必ずしもこだわらない。――という考え方を、モデル論と呼ぶことにします。
実在論とモデル論 : 科学的世界観のblog

なんだ、同じことじゃないか、と思うかもしれない。もしかしたら、多くの場合では、この二つは一致するのかもしれない。しかし、以下の例

の場合について、ここでは考えてみてほしい。

  • (a) 観測と観測との中間では波のように行動し、観測されたときは粒子として現われる。
  • (b) 観測したときは粒子として見えるが, 観測と観測の間は波として振舞っていると考えるとつじつまが合う。

実在論の立場で、量子力学の理論がそのまま実在でなければならないと考えると、観測と観測との中間に実在するのは波なのか粒なのか、その両方の性質を持つものなのか、ということが重要な問題になります。それは観測されていないのだから、波だと言ってしまう(a)はおかしいのではないか、ということにもなります。
一方、モデル論の立場で、量子力学は世界を理解するためのモデルであると考えれば、(b)のようにつじつまが合えばそれで差し支えないので、(a)と(b)の言い方の違いは、最終的には問題になりません。そのモデルがうまく役に立っていれば、最終的にはどちらの表現でもいいことです。実は(a)の後ろにも、(と考えるとつじつまが合う。)が、暗黙のうちにつけられています。明示されていないだけです。
実在論とモデル論 : 科学的世界観のblog

植原先生は必死になって、彼の言う「実在論」は「科学」と実は、同値なんだよ、という形で、こっそりと実在論を科学の陰に隠そうとします(それは、植原先生が自らを「自然主義」と自称していることと深く繋がっています)。しかし、科学とは上記の「モデル論」のことであって、上記の「実在論」ではないわけです。
量子的対象は、観測をするとそれが「粒子」なのか、「波」なのかが

  • 決定

します。では、観測をする「前」は、どっちなのでしょうか? 「実在論」はこれに

  • 矛盾なく

答えなければなりません。しかし、科学(モデル論)は、それに答える必要がないのです。なぜなら、

  • 観測していないから

というわけです。観測していないのですから、その「情報」がないのは、科学では当たり前です。そこは「神秘」です。でもいいのです。あくまで

  • 観測結果間の「整合性」(無矛盾性)

さえ保たれていれば、「つじつま」さえ合っていれば、それで

  • 科学理論

の「安全」は保てます。もっと言えば、理論が「安全」なんですから、ここからさまざまな

  • 応用問題

が解けます。事実、ケータイ電話を始めとして、さまざまな近年のハイテク商品には、この量子力学の応用が使われています。
おそらく、植原先生はこれさえも「リサーチ・プログラム」と言うでしょう。きっと、はるか未来にはこの奇妙な現象は、なんらかのブレークスルーによって、不思議でもなんでもなくなる、と。しかし、です。ここで問題にしているのは、そういうことではないわけです。この今、目の前で繰り返されている状態を

  • 実在

と「言って」しまうと、途端に「パラドックス」になってしまう、という端的な矛盾が問題にされているわけです。
なぜか?
それは実は、植原先生の「実在」の定義が、その本質において

  • 科学を「超えた」主張

をもぐりこませていることに問題があるわけでしょう(つまり「形而上学」)。つまり、ここで問われているのはむしろ、

  • なぜそれを「実在」と呼ばないではいられないのか(なぜ、端的に「科学」ではだめなのか)?

が問われているわけです...。