こんなことを書いてきておいて、他方で、ベネターは以下のように語っている。
はっきり言っておくが、すべての人生が悪いからと言って人生は続けるに値しないということを言っているつもりはない。私はそこまで言う必要はない。そうではなく、私が論じようとしているのは、人生は自分たちが思っているよりも悪いものであるということ、またどんな人生も非常にたくさんの害悪を含んでいるのだということまでである。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』)
生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪
あれほどのペシミズム哲学を展開した、ショーペンハウアーでさえ、基本的に自殺には反対していた。そして、上記にあるように、ベネターは
- 自殺をしろ
なんて言っていない。そういうふうに考えてみると、一体どっちが「まっとう」なのかがよく分からなくなってくるわけである。キリスト教原理主義者として、人類は「生き残らなければならない」と考えて、まるで、自分が神の「奴隷」でもあるかのように、自動ロボットのように
- 当たり前のように子どもを産んで
おきながら、他方で「自殺」を、「自由主義」の立場から肯定している、世の中の
- 自称「普通」
の人たちと、ベネターのような人は一体、どっちが話を聞くに値することを話しているんでしょうかね?
そういう意味では、やはりどこか仏教に似ていると言えるのかもしれない。仏教は、「生まれてこない方が良かった」のかもしれないが、もしも生まれてこなかったら
- (仏陀に習うことによって)悟りを開いて、輪廻転生を終わらせることが「できない」
のだから、やっぱり生まれてこなければならない、という構造になっている。この「悟り」を開くために、私は
- 生まれて来なければならない
と言っているわけで、うーん。なんだか、生きろと言っているのか、生きるなと言っているのか、どっちなのか分かんなくなるところがあるんですよね...。