ここで「X(エックス)」と呼んでいるものは、カントで言うなら
- 物自体(ものじたい)
のことと考えていいわけであるが、しかしそれが指し示しているものは、カントのこの用語の使用法が指し示しているように、必然的にさまざまな「現象」をどう考えたらいいのかを抜きにはありえない。
- 他者
- 世界
- 歴史
- 科学
- 客観
- 進化
- 価値
- 経済
大事なポイントは、これらは全て「(カントが言う意味での)現象」であって、「物自体」ではない、ということなのだ。ではなぜ、それらをここに置いているのかということになるが、確かに「現象」と「物自体」は違う。しかし、なんらかの意味での
- 外部
をどう考えるか、といった「経験」という「モデル」の構築物において、それらは一つの対関係を与えるわけである。
カントにとって、そもそも「世界」とは
- 私の中にある
何かに過ぎない。つまり、「世界」とはそもそも、産まれてから今に至るまで、さまざまに「認識」してきたものの蓄積から、構成され与えられるイメージなのであるから、それとなんらかの意味での「外部」なるものを
- 区別できない
というところに本質がある。ということは、客観は存在しない、ということになる。どんな客観も、なんらかの主観を必ず、その内部に含有していないではありえないのであるから。ならば、「外部」を問うことは無意味なのか? いや、それは決して無視してもいいようなものではない。実際に、
- 経験
はさまざまな複雑さをもち、そしてそれが「科学」の研究成果を与えるわけであるが、だとするなら、この「諸関係」をどう考えたらいいのか、が今も変わらず、問われ続けているわけである...。