新型コロナと「自治」と「掟」と「タブー」

よく、新型コロナでの対策が、死者の弔いにおける慣習と、とても一致していることが言われている。そして、このことは私たちに多くのことを教えてくれる。
現代の哲学はニーチェから始まっている。彼は、一方では「系譜学」という非常に重要な視点を主張しながら、他方で彼が多くの文章を費して行ったのは、

  • 道徳の(物理学的な意味での)非存在証明

でした。そして、現代の哲学者はすべてニーチェを継承している。そのため彼らの主張は、例えば、J・S・ミルの『自由論』が示しているように、

  • (他人に迷惑をかけなければ)なにをやってもいい

といった形で「シンプル化」されてしまった。
例えば、現代においては、一切の家庭内の暴力は「家庭内暴力」の一言で禁止されている。そして、それに伴うように、各地域での年配の人たちによる若者への「半強制」的な「指導」のようなものも「暴力」の名の下に、禁止された。
しかし、である。
それによって何が起きているか? 新型コロナが問題になっているのに、「一部」の意識の低い若者は街にくりだし、人込みが少ないことを「これ幸い」と、騒ぎまくっている。各家庭の子どもも、学校が休みになったと、「これ幸い」と友達と街にくりだし、やりたい放題というわけだ。
考えてみよう。新型コロナが問題になっているこのご時世で、自分の子どもが、ウイルスを拡散させるかのような行為を「いたずら」心で騒いでいるのを、なぜ親は

  • 頭を殴って

止めさせることを責められなければならないのか? 村が大流行に襲われんかとしているのに、一部の若者が「我関せず」で、どんちゃん騒ぎを繰り返しているのを、どうしてその村の長老が

  • 半強制的に縛って、回りに迷惑をかけないようにする

ことが、どうして責められようか? 大事なことは、その「地域」の

なのだ。狭い範囲の、比較的に「お互いの状況が分かりやすい」関係であるから、ある程度の「強制」が正当化される可能性がある。言ってみれば、「哲学」は、こういった「道徳」の役割を、一貫して人類から破壊することによって

  • 人類を弱体化させてきた

のだ...。