今起きていること

今起きている、と言われているのは

である。しかし、多くの人はこういった主張に皮肉な印象をもたないだろうか? なぜなら、考えてみてほしい。医者が足りない。さて。あなたは医者になれたか? なれない。なぜなら、

  • 医学部が徹底した「人数制限」をしている

から。つまり、だれも医者になれないのに、今、医者が足りないんだとw 医学部に入るのには、膨大なお金がいる。よって、ほとんどの国民は自分の家が「貧乏」ゆえに、医者になることをあきらめる。だったら、今起きていることは

  • 当然の報い

ではないだろうかw
正直、今起きていることは、誰も「責任」をとらないがゆえに起きている現象だ。まず、感染症の専門家は

  • より強力な「ロックダウン」をやれ

としか言わない。なぜなら、そうすれば短期的には防げること「だけ」は、確実に分かっているからだ。そこから、むしろ

  • 企業や学校が「リモートワーク」「リモート学習」を行わないことが「悪い」

といった説教を始める。そんなにこの政策がお気に入りなら、あなたが「全国民」に、ブロードバンドのネットワークとパソコンを自分のお金で配ったらどうでしょうか?
だれも今の政策に同情的ではない。みんな「だれかがどうにかしろ」としか言っていない。そして、少しでも自分の気に入らない政策を行う奴がいると「俺の言った通りだ」と、鬼の首をとったように、あげつらって、「自分は悪くなかった」と責任を押し付ける準備だけは用意を怠らない。
当たり前だが、一ヶ月ロックダウンをすれば、本来なら通常通りの経済活動が行われていたら得られたはずの収入が入らなくなる。では、その「損失」を、このロックダウンを「命令」した人たちが補填してくれるかというと、やったとしても限界がある。
つまり、どうやったって、「損失」が生まれる。
この誰も「補填」してくれない「損失」は、次第に「恨み」に変わる。つまり、誰もこれに対して「コミットメント」をしないからだ。
今起きている問題は、おそらく二つある。

  • 新型コロナはロックダウンを行わなければいけないタイプの病気なのか?
  • 日本社会は「いつまでも感染症の専門家が<やりたい>と思ったら、ロックダウンを行える」社会に、各個人のライフスタイル、各企業のビジメスモデルが対応してなければならないのか?

となるだろう。前者の問題は、少なくとも「情報」の非対称性がある。感染の黎明期には、まだ、これがどういった病気なのかが分かっていない。よって、初期においては、広い視野をもった対策が必要になるだろう。しかし、次第に病気の情報が増えていくのだから、対策は限定的になっていいはずだ。しかし、もしその情報が「間違って」いた場合、だれも責任をとれない。そこで、必然的に対策は「包括的」になる。全国のロックダウンといったような。そして、その、あまりの経済的なインパクトによって、「国家は滅びる」わけであるw
考えてみてほしい。今起きていることは、新型インフルエンザ等特措法に書かれている通りに進んでいる。しかし、新型インフルエンザと違い、新型コロナは、若年層の感染者が圧倒的に少ないことが分かっている。だったら、学校の閉鎖が本当に必要なのかどうかは議論があるはずだ。
同じように、「不要不急」の「自粛」政策も、新型インフルエンザ等特措法に書かれている政策だ。しかし、新型コロナでそこまでの必要はあるのだろうか? 今困っているのは、医療崩壊でしかない。だったら、その範囲で有効な政策を行えばいいだけではないかと思うわけだが、新型インフルエンザのために作られた「不要不急」の「自粛」に、

  • それしか(法律的根拠が)ない

から、すぐにすがってしまう。
例えば、クラスター対策班がよく言っていたのは「夜の街」問題だった。つまり、夜の街に行く人たちが

  • プライバシー

を理由に、その行動経路を細かくクラスター調査人に話すことを嫌がっているわけであろう。そこから、「夜の街」がクラスター対策班にとっての「リスク」になった。正直に答えてくれないから、自分たちの「クラスター対策班」の武器が有効に機能しない。そこで、彼らクラスター対策班は

  • パニック

を起こす。つまり「想定外」だw 自分たちが想定してくれたように、人々が行動してくれない。だったら、

  • ロックダウン

しかないw まあ、これが「真相」なんじゃないか?
では、今。クラスター対策班はなにを考えているだろう? まず、どんなに感染者数が減っても、東京と大阪の「夜の街」の規制は解放しないだろう。少なくとも、したくないだろう。また、大規模なイベントも解放したくないだろう。
つまり、クラスター対策班にとって

  • 自分たちの「仕事」ができるように「日本を変える」

ということが「目的」となっているわけであるw さて。なぜ彼らはそこにこだわるのだろう? 一つは、「研究対象」としての新型コロナがある。こうやってクラスター対策を続けていくことで、

  • 多くの科学的知見が集まる

ことが「大事」なのだから、なんとかして日本を「クラスター対策が有効に機能するように制御したい」ということが目的化しているわけであるw
しかし、多くの国民にとって、一体いつ、この「クラスター対策」という政策に「コミットメント」しただろう? これが、田舎において有効であることはある程度証明されているとしても、

  • 都会

にまでこれを機能させられるかは、限界があると考えざるをえない(この判断は、新型ウイルスの種類にもよる)。例えば、上記の例にもあるように「夜の街などの多くの都市機能を犠牲にして」でしかないことは、もはや分かってきているわけであろう。それは

  • クラスター対策班が「そうしたい」と思っていること

ではなく、

  • 民主主義的な国民的議論

によって選択されることでなければならないはずだ。
例えば、こんなふうに考えてみよう。もしも、この新型コロナに「感染」しない方法が「確実に分かっていた」としよう。それなら、あとは「それ」をやらないことを、企業や個人が努力すればいい、ということになるだろう。そして、そこから必然的に「夜の街」の一部の業態は

される、といった結論になるのではないか? まあ、無条件的な禁止でなくてもいい。この新型ウイルスが流行している間は「禁止」でもいい。また、ある程度の「三密」が避けられないイベントもそうだろう。いずれにしろ、なんの法的根拠もなく

  • 自粛

によって、国民の経済損失を「平等」的に要求し続けることには、どこまでの正当性があるのかが疑わしいわけである...。
(おそらく多くの人が考えていることは一緒で、「なぜ基礎疾患をもっている人を選択的に隔離しないのか」なわけであろう。ほとんどの死者が老人なのは、老人に潜在的な基礎疾患者が多いから、といった推測ができるし、ときどき若い人に被害がでるのも、なんらかの潜在的な基礎疾患があったから、かもしれない。なぜこれが実行されないのかは、今の国会を見てみれば分かる。企業の役員を見てみれば分かる。みんな「老人」だ。日本は老人に支配されているのだ。老人たちは、早く「隠居」をして、若い人に「禅譲」すればいいんじゃないか? つまり「革命」である...。)