文系的「関心」への疑問

もう、はるか過去の話のように思われるが、つい最近まで、日本はラグビーW杯での日本代表の活躍で熱狂していた。
ただ、私はそこで、ある疑問を抱いた。つまり、例えば「SFファン」のような人たちは、こういった話題に興味がないんだな、ということだ。それは同じように、サッカーW杯での日本代表の闘いに対しても同じであった。
こういった「傾向」について、そりゃあ、体育会系と文系は違うんじゃないのか、といった形で説明される方もいるだろう。
しかし、例えば、アニメ「ガルパン」についての日本全国の熱狂に対して、そういった「SFファン」が、ほとんど無関心だったことも、私にはまったく「同じ」現象のように思われるわけである。
アニメ「ガルパン」は、表面的には「美少女アニメ」のカテゴリーに入る。そして、一貫して、「SFファン」たちは、こういった「美少女コンテンツ」に対して

  • 無関心

を貫く。しかし、他方において、そういった「SFファン」たちが、例えばアニメ「ガンダム」に興味を示したかというと、著しく、そういった傾向は見られない。
つまり、そういった「SFファン」たちと、ガルパンガンダムを分かつ境界線は、「美少女コンテンツ」かどうかではないわけである。そうではなく、彼らが

に対して、ほとんど一貫して「無関心」というところに、「SFファン」たちの特徴が現れている。
果して、「SFファン」たちは、そもそもどういった「興味」や「動機」に突き動かされて、コンテンツを消費しているのだろう?
ガルパンを見た人は分かると思うが、この戦車戦は、あくまでも

  • 各戦車に乗っている人物からの視点

で描かれている。そのため、結局のところ、「全体」において、各戦況がどうなっているのかが分かりにくい。それぞれの攻撃の意味はなんなのか。本当にその攻撃には、それなりの意味というか、威力があるのか。こういった観点が、よく分からないわけである。
例えば、ガルパン最終章第2話のブルーレイの特典ディスクに、ガルパンの軍事監修の田村さんによる、テレビアニメシリーズの各闘いの戦術分析が、トークショーという形で語られている。

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これを見ると、一見、混沌として見えた大洗チームの戦術の意味が分かってくる。つまり、各戦車には特徴がある。装甲の厚い戦車に対しては、それなりの威力の玉を撃てない戦車は無力であるわけだが、だからこそ、なんとか「急所」を狙って、最後のあがきを行っている場面が描かれたりする。
つまり、「こういう感覚」が、どうも上記の「SFファン」の方たちには共有されていない、といった印象を受ける。
こういったものをなんと呼べばいいのか分からないけど、ここではそれを「工学部的」と呼んでおこう。ある戦車がある。これは何でできているか? 鉄である。しかし、その装甲には厚いものもあれば、薄いものもある。早く移動できるものもあれば、ゆっくりしか動けないものもある。大きな威力の砲弾を撃てるものもあれば、そうでないものもある。こういった

  • 仕様

に、そもそも「SFファン」の人たちは興味がない。
これをもっと単純に言ってしまうと、「SFファン」の人たちは

に興味がない。これはつまり、彼らは例えば「鉄道オタク」や「自動車オタク」の人たちのような、根源的な「モノ」への「こだわり」が著しく欠けているわけである。
これは、どういうことなのだろう?
まあ、ここではその「現象」を以下のように説明してもいいだろう。彼ら「文系」は、「工学部」に進学しなかった。しかし、だからといって「科学」や「世界」に興味がないわけではない。例えば、「科学哲学」という「分析哲学」の一分野とされている

  • 謎の分野

がある。ここでは、「科学革命」の「歴史法則」について、多くの研究がされている。どういった「歴史法則」によって、科学は過去の定説がくつがえされて、今の定説に至ってきたのか、といったような。
ここでは、彼ら「科学哲学」の研究者たちは、一回も「研究室」に入って「実験」を行わない。彼らは、ひたすら

を読みあさる。その行為は、まさに、「哲学」と過去から呼ばれてきた

  • ポエム書

を、必死になって何冊も読み漁る行為と、完全に同列な行為なのだ。
さて。
なぜ私がここまで、こうやって、いわゆる「SFファン」という人たちの現象を分析してきたのかというと、こういった特徴が、今回の

  • 新型コロナ

においても再現されている、といった印象を受けるからである。
ご存知のように、そもそも「ウイルス感染」は、

という形で、一貫して「文系コンテンツ」として描かけれきた歴史がある。つまり、彼ら「SFファン」にとっては、こういった「感染症パニック」は彼らが読み漁ってきた「文系コンテンツ」においては

  • お馴染のコンテンツ

なのだ。
しかし、そこに描かれていたものとはなんだろう? 過去のある文明が感染症によって滅びたとか、アポカリプスSFでは、未来の人類が感染症によって滅びたとか、つまりは、その

  • 恐しさ

を描いているのであって、そもそもそれが

  • なんなのか?

についての「関心」が著しく低いわけである。
例えば、今回の新型コロナにしてみると、問題はこれが「人間がコントロールできる性質のものなのか」が問われるはずだ。そして、それが分かるのは完全に

  • 生物学

の分野の話である。どれぐらいの距離を離れれば、感染しないのか。どういった感染ルートで感染するのか(手で物を触って、その手で、目や鼻や口を触ったから、とか、体面で会話をしている相手の咳などの唾などが、顔についてか、とか)。排泄物からの感染はあるのか、とか。
こういった知識は、単純に「生物学」における「実験」によって、ある程度解明する。
(そして、重要なことは、「相手」が「いる=存在する」ということなのだ。相手とは「ウイルス」である。それは、今回であれば「RNAウイルス」であり、一種の「物質」だ。つまり、理系的な感覚から言えば、この「物質」を、どう人間が「コントロール」するかの話だ、と一貫して考えているわけである。)
そして、こういったことが分かってくれば、そもそも

  • 私たちの「行動変容」を行う

だけで、かなりの割合で、この感染症を「コントロール」できる可能性があることを示している。
また、例えば「肺炎」の問題にしてもそうだ。どういった人が肺炎に至りやすいのか? それは、「基礎疾患」にある方だったり、「タバコ喫煙者」だったり、ということが分かっている。だったら、そういった人に対して、重点的な管理を行えば被害を少なくできるのではないか?
これが、上記の文脈でいうところの

  • 工学部的な関心

なわけである。またそれを

  • 鉄道オタク・自動車オタク

と呼んでもいいだろう。ラグビーのおもしろさも、ガルパンの戦車戦のおもしろさも、こういった「工学部的な関心」の延長にある。
対して、「SFファン」的な関心は、どこか

  • 運命論的(=歴史物語的=歴史哲学的)

なのだ。どうせ、あがいたって無駄とか、もうコントロール不可能なんだから、「ロックダウン」で、全ての経済活動を停止しよう、とか。つまり、私は彼らの

  • 想像力

の貧困さの「原因」であり、その「理由」がどこにあるのかを疑っているわけである...。