映画「さよなら私のクラマー」について

今、どんな映画が公開されているのか、よく分からないで映画館に行ったら、掲題の映画が公開されていたので見た。
テレビシリーズは見ていたので、あまりそれとの関係がよく分かっていなかったのだが、テレビシリーズが高校生編で、映画が中学生編ということで納得。しかしこれも、新型コロナがなかったら、もっと早く公開されていたのだろうと思うと、なんとも言えない感じだが。
作品については、ほぼ原作通りとネットでの視聴者の感想を読んで、なるほどと思ってはいたのだが、原作をそもそも読んでいないので、新鮮に見ることはできた。
ただ、私の感想は正直、いいものではなかった。
まず、この作品が、漫画『四月は君の嘘』と同じ作者による作品であることもあるのだろうが、非常にテーマが似通っていることが気になる。つまり、

  • ヒロインの少女の少女時代の「一瞬の輝き」

を、なんとかして「美しく」描こう、という意図が共通しているわけで、そのどこか、作者による「恣意的」な少女崇拝に違和感を覚える。
作品はまず、恩田希(おんだのぞみ)の小学校時代の描写から始まる。小学校までは、男子と女子には体格差がなかった。よって、当然のように、一緒にサッカーの練習をしていたし、大会にも出ていた。
ところが、中学になって、恩田はそれまでと同じように男子サッカー部に入部し、男子の試合に出たら、たまたま、腕を骨折してしまう。
ところが、である。
ここから、サッカー部の監督による「いじめ」が始まる。恩田を公式戦に出されなくなる。恩田はこの「仕打ち」が納得できず、何度も抗議をし、抵抗をするが、監督は、これは

  • お前(恩田)のためなんだ

と言って、一切聞く耳をもたない。
監督が恩田を「差別」する理由は、恩田が「女である」という理由しかない。監督は、女は男に比べて「フィジカルで劣る」から、公式戦は「危険」だからダメだ、と言う。しかし、そう言うことが、恩田の「実力」を認めていないことを意味していない。十分な力があることは、恩田本人に向かっても、何度も語っている。
まあ、おおよそ、こういった構造になっているわけだ。作者が何を言いたいか、分かるだろう。これは、ある種の

  • 悲劇

だ、と言いたいわけである。小学校までは、男たちと一緒にやってたのに、中学になったらできなくなった少女。これは「かわいそう」だ、と。そしてこれは

  • 運命

なんだ、と。その理由は、高校に入ると、恩田は「女子サッカー部」に入ることから分かるだろう。
女の子が男の子と並んで戦えていた、小学校時代は一種の「英雄」の時代だと言えるだろう。ところが、中学になって、男と女は同じ土俵で戦えなくなる。これって、

  • 残酷

だよね、この切り替わりの「一瞬」の

  • 輝き

が、漫画『四月は君の嘘』で描かれた、宮園かをりの短い人生の中での「輝き」と、対比される。そういう意味では、主人公の有馬公生の「悟り」と対比されるのは、この作品では、恩田希の回りをとりかこむ、男子部員たちの「ハーレム状態」と言えるだろう。
でもさ。
なんか変じゃね? まず、さ。監督は最初は恩田を試合に出していたんだよね。ただ、怪我をしてから一度も出さなくなった。いや。試合で怪我をする子どもなんて、男子を含めて、

  • いっくらでも

いるよねw しかも、この作品で絶対に許せないのは、監督が恩田の実力を認めていることなんだよね。いや、実力があるなら、試合に出さないことが「差別」でしょw
当たり前だけど、Jリーグでも、体格は小さいけど、ドリブルがうまくて試合にレギュラーで出ている選手はたくさんいる。彼らは「フィジカルで劣っている」わけだけど、彼らと恩田に、なんの差があるんだろうねw
確か、柔道の講道館杯は、「無差別級」で、よく軽量級の選手が重量級の選手と戦う試合が見られて、注目を集めている。
スペインで活躍している久保選手は、自分の持ち味のスピードが殺されることを嫌って、なるべく、バーベルなどの機械トレーニングをやらないようにしている、と自ら言っている。確かに、そのことによって、彼のスペインでの評価はフィジカルに劣る点がネックになっている、と受けとられている側面があるわけだが、だからといって

  • ケガをするから久保を試合に出しちゃダメだ

とか言っている奴がいたら、「どうかしている」だろうw
しかも、恩田は部活の紅白試合では、控え組で何度も得点をとって、完全に「レギュラー組」並みの実力を見せているわけだけど、監督はこれは「レギュラー組の男子が手を抜いている(手加減をしている)」から、ダメなんだ、と影で「差別」を男子レギュラーの選手たちにだけ語る。いや、練習で手を抜かないと試合をやれないような

  • スポーツ

なんて、その時点でスポーツじゃないわけで、今すぐ止めさせなきゃなんないでしょw
作品の構造として、恩田は小学校の頃から、ずっとサッカーをやってきたこともあって、ボールテクニックが、その辺の最近サッカーを始めた男子と比べものにならない、という認識がある。
しかし、そのことを監督が、彼女の「実力」は認める、と言うこととの違和感なんですね。実力があるなら、たんに試合に出せばいい。そうじゃなく、そういったボールテクニックは高いものがあっても、それだけじゃ能力として足りない、と言うんだったら、まだ分かるわけ。
そう考えるなら、監督がやるべきは、彼女に地域の女子サッカーのクラブチームに所属することを進めるとか、女子サッカー部のある学校への転校を進めるか、そういうことだよね。
つまり、さ。
この作品がダメなのは、「言っていることが矛盾している」ことなわけ。矛盾したことを言っておいて、女が男と試合をできないのは

  • 運命

なんだ、みたいな自己陶酔型の「悲劇」、その「悲劇」ゆえの

  • 人生の中での、この短い時間の「輝き」

みたいなことを「説教」するから、なんなの、この男たちの「少女崇拝」願望...っていう、男の欲望のダダ漏れっぷりが、ウザく、気持ち悪いっというわけだ...。