安倍元総理の警護

今回の安倍元総理の選挙演説中の銃殺は、多くの人にとっては、元総理の警備がなぜ手薄だったのか、という形で疑問にもたれているのではないか。つまり、元総理なのだから、それなりの警備がされているはずだと考えて、そうであれば、こんな銃撃で死ぬなんて、そう簡単には起きないんじゃないか、と。
こういった考察は、もっともだと思うだろう。つまり、アメリカでもロシアでもウクライナでも、リーダーは死んでいない。徹底して、暗殺者から逃げて、殺されないように振る舞っているし、今のところ、バイデンもプーチンもゼレンスキーも暗殺されていない(まあ、黒子なんじゃないか、という噂は常にあるが)。
しかし、一つ気になるわけである。
それは、中村という、警視庁長官が、本来はそんな地位につけるような「器(うつわ)」の人ではなく、たんに、安倍元首相の

  • よいしょ本

を書いたというだけで、ジャーナリストの伊藤さんを酒で酔いつぶれたところをレイプして逮捕されるはずだった奴の逮捕を「阻止」したという理由だけで、安倍が一本釣りした、ということが

  • 日本中

に知れ渡っている、ということだ。
つまり、どういうことかというと、中村は非常に「能力が低い」わけである。たんに、安倍にとっての「論功行賞」で、警視庁長官の地位についただけで、彼に、この地位を担えるだけの

  • 本質的な能力がない

わけである。
よって、何が起きたかというと、警視庁長官は、安倍に頭が上がらない。安倍に意見ができないわけである。全部、安倍の言うことなら、

にならざるをえない。すると、何が起きるかというと、本当にあるべき「優秀」な人なら、たとえ、安倍だろうが、それが問題があると思うなら、

  • 諫言(かんげん)

を行い、どんなに嫌がられても、ねばり強く、「それがあなたのためになるのだから」と戦うわけだが、そもそも、それを判断をする能力もなく、間違って、この地位を引き受けてしまった人間は、その地位をくれた人には、なにもできなくて、言われるがまま「イエス」と言ってしまう。しかし、「イエス」と言ったけれども、それは、

  • やらなければならないことを十全にやれる

ということを意味せず、欠陥があるのにもかかわらず、

  • その「欠陥」を自ら判断する能力がない

がゆえに、それがダメであることを分からず、そのままにしてしまい、悲劇を迎えた、というわけで、つまりは、

  • 安倍が、もともとは「自分の都合」で勝手に差配した人事が、回り回って、自らの命を失うという「墓穴」に繋がった

という「皮肉」を思わせるわけである。
安倍は分かっていなかったわけである。安倍は、なぜ「民主主義」が重要なのかを分かっていなかった。そうやって、自分の個人的な「利害関係」で人事に介入をすると、そもそもの、その組織が供えていなければならなかった

  • 能力

を決定的に失う可能性があるということを。
安倍は、こういった「堕落した選択」を多くの場面で行ってきた。そして、たまたま、この事件が起きたわけだが、それは、そういったさまざまな「堕落した選択」が、本来的にもたらす可能性があったことの一つのパターンが実現された、というだけに過ぎなく、ある意味での安倍の

  • 独裁

が、独裁であるということが反語的に、いかに「危険」であるのか、という問題意識がなかった、というナイーブさが、彼の致命的な結果をもたらした、と言わざるをえなく思われるわけである。
おそらく安倍は、自分が統一教会と親身にすることを世間に見せることが、

  • 統一教会に「恨み」をもった人から、今度はその「恨み」が自分に向けられる

という「可能性」について、ほとんど考えたこともなかったのではないか。というのは、一貫して安倍の政策は「小賢しい」特徴があって、つまり、

  • 大衆を「小知恵」で「あざむく」

ことを繰り返してきたわけで、そもそも、そういった「大衆を馬鹿にした」かのような態度が、大衆の逆鱗にふれることが、回り回って自分への「恨み」につながり、それが、なにかのタイミングで爆発して、自分の寿命を縮めてしまうかもしれない、なんていうことを考えた様子も見られなかったわけでしょう。
つまり、もしもこういった観点をそもそも備えているような政治家なら、

  • ある程度は、大衆にとって「やってほしいこと」をやった方が、自分にとっても得になる

という、「徳治政治」の利点を分かっていたはずなのである。
しかし、安倍の場合、子供の頃の全共闘の学生に「いじめ」られた、おじいちゃんの姿を見ていたときからのトラウマによって、それ以降、終始一貫して、

  • 大衆への「恨み」

こそ、安倍の行動の原動力だったんじゃないか、という姿が見てとれるわけだろう。安倍は、ずっと、大衆を嫌いだったし、もっと言えば、大衆を怖がっていた。だから、安倍は、あらゆる政策で、なんとかして、大衆の「嫌がる」ことをやることに、個人的な快楽や満足を感じていた。安倍の人生は常に、大衆との「戦争」だった。安倍はずっと、大衆にそうやって「戦う」ことで、毎日の、

  • 勝ち負け

ばかりを考えている人生だった。そうして、今日は何勝何敗だったか、ばかり気にしていた。
しかし、いずれにしても、その安倍の「栄華」は終わった。「いずれ栄えしものでも必ずや衰えゆく」という

  • 法則

が発動しただけ、とも思えるわけである...。