以下の動画の、この、長浜浩明という人は議論を始める前に、平泉澄について言及している。つまり、基本的に、
- 平泉史観
を自分はここでは、信仰して、その理論の主張の通りに語る、と宣言しているわけだ。
長浜浩明:(明治時代の小学校の歴史教科書を紹介して)これは、日本書紀にもとづく歴史の流れを記述しているのであってですね、日本書紀は日本の正史ですから、日本の正史にもとづいて、古代を語るというのは、ごくごく、まっとうな考え方だと私は思っているわけですよ。
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長浜浩明:(神武天皇の個所を朗読した後で)まあ、こういうことが今の小学6年生あたりから徹底的に教えられているために、その頃の日本人ていうのは、自分のルーツ。そして、どのようにして、天皇が誕生してきたかを、しっかりと、まあ、心に刻みこんでいたわけです。ルーツがはっきりたわけです。
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上記で私は「正史」と記述したが、言うまでもないが、これは、動画なので、しゃべっているのを文字にしたに過ぎず、この人が本当に「正史」という言葉を思い浮かべて話していたのかは分からない。というのは、私はこの人は、実際は、
- 聖史
の方を思い浮かべていたんじゃないか、という疑いがある。つまり、日本書紀は
- (日本国の)聖典
だと言っているんじゃないのか。アメリカの狂信的なキリスト教徒は、聖書に書いてある一言一句は「真実」だと疑わない。それを、
- そのままの意味
で「真実」だと認めなければ、信者とは言えない、と考える。そこから、ダーウィンの進化論は嘘であって、はるか未来には、聖書の一言一句が「真実」であることを、科学は「証明」するはずだ、と考えている。そしてそれを彼らは
- (科学の)進歩
と呼んでいる。この事情は日本でも同じ、というわけである。
古事記と日本書紀に、嘘が書いてあるわけがない。なぜなら、この二冊は、日本国の
だからだ。聖典とは、神が人間に「与えた」言葉なのだから、絶対にそこに嘘はないわけである。つまり、どの一つの言葉も、その意味を疑ってはならない。もしもそれを疑うなら、そいつは日本人じゃない、とされる。
ここから
- すべて
の社会秩序が形成される。天皇のご真影を絶対に汚してはならない。学校に通う子どもたちは、もしも、火事があったら、そのご真影を
- 命にかえても
守らなければならない。そして、その「ただの写真」を守るために、火事で命を失った子どもを、学校教育の場で、何度も何度も
- 礼賛
される。小学生たちは、朝。学校に登校したら、ご真影に向かって、
- 土下座をして礼拝
をして、その日、一日、時間の隙があれば、何度も何度も、ご真影のある方角に向けて、ひざまづき、敬礼をする。これを、毎日、毎日。朝から晩まで繰り返す。そして、この敬礼を
- 最も情熱的に
- 最も熱心に
繰り返した人間が
- 出世
したわけだ(逆に言えば、これを少しでも「さぼった」奴は、牢屋にぶちこまれて、拷問をうけた)。しかし、考えてみてほしい。こんなこと「ばっかり」やってたら、日本を世界一の国にするための勉強をやる暇もないよね。
でも、ほとんどこれと同じような情況が繰り返されているのが、宗教だと言ってもいい。つまり、この構造はなにも変わっていないわけだ。宗教は、最も最初に、最も熱心に、教祖に対して、
- 額を地面にこすりつけて、ぬかづいた奴
が、まっさきに出世する。いや、出世するだけじゃない。この「出世競争」に負けた、その他、すべての人間が
- 不忠
を理由として、牢屋にぶちこまれ、拷問を受けて、そのまま日の目を見ることはない。こうやって、皇国史観は
- 社会支配
を実現する...。