前回書いたように、量子力学とは、シュレディンガー方程式のことだ。
だとするなら、この量子力学の
- 幾何学的な意味
さえ分かれば、その「実体論的な存在の位相」を決定できるじゃないか、と「文系」は考える。なんだ。理系は量子力学は難しいと言うけど、そもそも、この世界に「難しい」ものなんて、あるわけがない。難しいなんて、
- この世界は、単純な「からくり」によって説明できる
と考えるのだから、それに矛盾している時点で、であるならば、
- その理論自体が「間違っている」
からだ、と考える。
私たちは量子力学と聞くと、「二重スリット実験」を思い出す。しかし、この「二重スリット実験」自体がなにか本質的ななにかなんだと考えることは、大きな誤解の原因だ。
光量子仮説から、光は、
- インディビジュアル
な存在であることが知られている。つまり、光には「これ以上分割できない」最小単位がある。ということは、二重スリット実験で発射する光は、
- 一個一個
飛ばすことができる。そうした場合、「二重スリット実験」の結果がどうなるかというと、
- 変わらない
わけであるw いや。変わらないどころか、こっちこそが「二重スリット実験」の本質なのだ。これが私が文系が、結局、なにも人の言うことを聞いていない、と言う意味なのだ。
- 一個一個
飛ばすのに、結果が変わらないとはどういう意味か? それが、ずっと言っている「確率」の意味だ。そうやって一個一個飛ばされた光子が壁に当たる場所をプロットすると、一気に大量の光を当てたときと同じように、
- 干渉縞
が現れる、と言っているわけである。どういうこと?
おそらく、まだこの実験は、この事態の意味をシンプルに記述することに成功していないんだ。そこで、上記の動画では、
- マッハ・ツェンダー干渉計
を紹介している。ハーフミラーという、光を50%反射して、50%透過する装置を二つ用意する。一個目のハーフミラーを通った光を、100%反射するミラーを用意して、同時に、もう一つのハーフミラーにぶつけると、どうなるか? 二個目のハーフミラーを通った光は、反射する場合と透過する場合があるから、それぞれに観測装置を置いておく。
ここで、である。
もう一度、この装置に対しても、
- 一個一個
の光を挿入してみようじゃないか。そうすると、どのような結果が観測されるか? 言うまでもないだろう。まったく、二重スリット実験と同じで、「干渉縞」が現れるw
もはや、これ以上に単純化できないだろうw
一個の光子が発射された後、その光子がどのような軌跡を描くのかは、もはや、「文系」的な、素朴実在論、素朴存在論、素朴「文系」自明論では記述できない。
この発射された一個の光子は、「二重スリット実験」なら、最後は壁にぶつかって、光の軌跡を残す。その時、確かに間違いなく、壁のどこにプロットされたのかが「決定」している。
しかし、その「決定」が起きる
- 前
に、「どうなっていたのか」を私たちはイメージできない。これは本質的である。普通に考えれば、光は「個体」だと言っているのだから、壁に当たるまでの「どこか」にその「個体」が「存在」していると考えるだろう。しかし、もしもそうなら、この
- (波の)干渉現象
を説明できないw というか、本質的に、
- 壁に当たる前も、光は「個体」だったはずだ
と考えると「矛盾」するわけであるw
ここで光が波だと言っていることの意味は、なんというか、光が光源から飛び出して、壁に向かっていることは正しいわけである。しかし、その向かっている何かは、
- 一定の幅をもった、広がりをもった、空間的な存在
だとでも言うしかない形態なわけである。つまり、「波」である。波は広がりがある。ちまり、なんだか靄がかかったような、ふわふわした広がり、とでも呼ぶしかないような「波」として存在している。
そしてこの波は、(波なんだから当然なんだが)
- 重ね合わせの原理
で実現されている。つまりこうだ。二重スリット実験にしても、マッハ・ツェンダー干渉計にしても、ある一点の光源から発射された光子は、
- 二つの分かれ道
の、それぞれに向かった「波」が、最終的に一つに重なって、
- 重ね合わせの原理
によって、強めあるところと、弱めあるところの二つの縞が現れる。
ただし、である。
それは、あくまでも「壁にぶつかった光子」の、一個一個のプロットを何回も「試行」した結果現れる、
- 統計結果
にすぎない。これが、「コペンハーゲン解釈」における「波束の収束」だ。壁にぶつかれば、プロットされる。つまり、壁に当たるまでは、光は波の性質をもった「存在」と記述するしかない。そのはずなのに、ひとたび、壁にプロットされるやいなや、それまでの波は一瞬でなくなり、ただの一点の「光子」だけが、
- そこ
に、痕跡として残される。これが、シュレディンガー方程式における、
という確率密度だ。それまで波だったものが、「波束の収束」によって「そこ」に現れる確率は、この式によって表される。
「コペンハーゲン解釈」ではこれを「観測」と呼ぶが、この呼称は正しくない。なぜなら、壁に当たってポイントされて、「観測」されるまでは、
と言って、「波束の収束」が起きて最終的にどこにプロットされるかの「可能性」の全ての状態が、
- 重ね合わせ
の状態で、<共存>しているからだ。この中のどれが、実現するかは、この段階では決定していない。どれでもありうる形で、それらが「波」として重なっている。この
の状態は、これはこれで、一つの「物理的状態」だw この量子もつれをカメラで写真にとる、なんてことも行われている。いずれにしろ、この「もやもや」は、「波束の収束」によって、どこかの一点にプロットされるという結果になるわけだが、だからといって、
- 逆算
で、
- ここにプロットされたのだから、「観測される前は」あそこにあったとしなければ「つじつま」が合わない
と言っても、
は、ことごとく、その証明に失敗するのだ。それが、今回のノーベル賞を送られた、ベルの不等式の結果だと解釈されている。
先ほど言いかけたことだが、この「波束の収束」の原因は「観測」だけではない。観測は人間がそもそも、量子的存在に、光などの量子的存在をぶつけなければ、それの物理量を決定するための情報を得られないという意味で、しかし、逆説的に、ぶつけてしまったら、その相手の状態が本質的に壊されてしまうという「関係」を指していると言っていいと思うが、大事なポイントは、
- この「量子もつれ」状態の破壊は、別に「観測」以外でも起きる
ということだw それはなんでもいい。空気がぶつかるでもいいし。そもそも、こういった現象を
と呼ぶ。つまり、観測はデコヒーレンスの一例に過ぎないのだ(観測に神秘的な意味はない)。
こういったように、二重スリット実験の本質は、
- 同一の自己を原因とした「二つ」の現象の間にすらも、<重ね合わせ>の現象が現れる
というところにある。
こういった現象は「不思議」なのか? その問いは、この世界の物理現象をどう考えたらいいのかに関係している。上記の現象の一つの「応用」として、量子テレポーテーションや、量子暗号が注目されている。
必ず、反対方向を向く二つのスピンを作ることが可能だが、その二つのスピンをそれぞれ、地球の裏側にもって行ったとすると、まだ、観測をしていない「量子もつれ」状態なら、どっちも、どっち向きのスピンかが分かっていない。しびれをきらして、どっちかが、目の前のスピンを観測するやいなや、相手側のスピンはその観測した反対なのだから、観測した方は、地球の反対側のスピンの方向を「知る」ことになる。まるで、観測という行為によって、
- 一瞬にして地球の反対側の対象の物理的状態が「非決定状態」から「決定状態」に変わった
という形で、「情報が光の速さ」を超えて伝わった、と言いたくなるわけだ。
ただし、この現象には、もしも一般的な意味での「テレポーテーション」というものがあるとするなら、これは
- 条件付きテレポーテーション
となっていることが分かる。
- そもそも、一方のスピンの向きに対して、他方が反対に向きになるのは、たんなる「運動量保存則」にすぎない(つまり、もしもこの関係が違っていたなんてなったら、こっちの方が革命的に、おかしなことが起きている、ということになる)。
- スピンの向きが観測によって分かったので、光の速さを超えて、地球の裏側のスピンの向きが分かるといっても、この観測による「決定」は、まったく「自由」がない。完全に、量子力学的な意味での「確率論」によって、完全に「決定」されているわけで、あくまでも、この範疇を超えられない。
そう考えると、なぜ多くの人が「こっちの(量子力学的な確率論の)方」をもっと驚かないのかは、不思議なわけだ...。