現代思想の本を読んでいると、「固有名」の話がでてくる。まあ、国語の文法ででてくる、固有名詞と同じような意味の概念だ。『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』を書いた、クリプキは、それを
- 指示
という言葉で説明する。私たちがなにかを「指を指して」示すとき、それは「それ」性として、ある具体的な目の前にある対象を示している。じゃあ、これは、
- 概念
として記述できるだろうか? バートランド・ラッセルがやったように、ソクラテスは古代ギリシアの哲学者で、といったように、内包的に説明を追加していけば、もう他の人とは間違えられないほどに、完全な記述を得られるなら、
- 固有名とは「本質的に除去可能」
ということになるわけだが、まあ、そうじゃないから固有名という文法が存在するわけだよねw おそらく、ここで想定されているのは数学で、数学には固有名がない。しいて言えば、「数学そのもの」が全体で一つの固有名があるみたいな感じ。同じように、固有名がないのがヘーゲル哲学なわけだけど、つまり、固有名を排除できるという考えには、なにか欠陥がある、ということを意味しているわけだ。
ところで、シュレディンガー方程式を見ると、これ。波動方程式なわけね。つまり、複素平面上の波動方程式。つまり、解が波。波だから、
- 重ね合わせの定理
が成立する。しかし、さ。波に「固有名」はないよねw だって、「重ね合わせ」ができるんだから。
このことをよく示しているのが、素粒子の「自己同一性」の問題だ。
ボールが二つある。それぞれ、AとBと名付けよう。そして、箱が二つある。それぞれ、XとYとしよう。この二つの箱は、AとBのボールの両方を入れることができる。
XとYの箱に、AとBのボールを入れる場合に、それぞれの確率はどうなるかは以下だ:
- X:AB ... 1/4
- X:A、Y:B ... 1/4
- X:B、Y:A ... 1/4
- Y:AB ... 1/4
さて。ここで、ボールを光子に変えてみよう。この場合の実験の方法は複雑だが、以下となることが分かっている。
- X:〇〇 ... 1/3
- X:〇、Y:〇 ... 1/3
- Y:〇〇 ... 1/3
ん? なんじゃこりゃ、と思うかもしれない。しかし、事実なのだw
(ちなみに、この話は、朝永振一郎の『量子力学と私』という、岩波文庫緑色に出てくる。)
なんで、こんなことになるのかというと、光子は量子力学的な存在であって、
- 「本質的に」非固有名的存在
だからだ。さっきから言っているように、光はシュレデインガー方程式で完全に記述される。しかし、その解は、「波動関数」で記述されるわけだから、
- なにかとなにかを「区別」するということが、まったく、意味をもたない
わけだw(それが、重ね合わせ原理的存在である、という意味なのだから)
ちなみに、これに対して、上記の動画では、「どこまで」この現象が見られるかについて、フラーレンC60まで、この現象は見られるだろう、と推測している(なぜなら、フラーレンC60は、量子的な波の現象が現れることが分かっているから)...。