藤井聡と宮澤孝幸の新型コロナ論

ここのところ、インボイス反対について、京大の藤井聡先生ががんばってられるが、私から見ると違和感があった。というのは、私は、新型コロナが最初に問題になったとき、ユーチューブで京大の藤井聡と宮澤孝幸の二人が対談した内容を覚えているからだ。

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ここにおいて、この二人が話していたことは、

  • ノーガード戦法

についてだった。なんの対策もやるべきじゃない。そうじゃないと、日本経済への影響がとんでもないことになるから。そして、そこで彼らが「礼賛」したのが

だった。宮澤はこの動画で、昔の結核の頃の日本人を「礼賛」して、その「胆力」を学べない今の日本人の「軟弱さ」を情けないと嘆いている。つまり、

  • 新型コロナに感染することは「人間の生」にとって、大事なプロセスであって、それによって「死ぬ」人がいればいるほど、人間が「完成」する

という「進歩」思想を語っている。つまり、日本は自らウイルスに感染して、死ぬことによって

  • 種としての人間の「進歩」に貢献すべき

という「優性思想」を語っている。人間にとって、ウイルスに感染して死ぬことは、「ずっと動物が今まで繰り返してきたこと」なのだから、私たちはその「運命」を受け入れるべきだ、と言っている。つまり、

  • 自分の命を「人間の進歩という未来」のために捧げろ

と。そういった、人間の「美しい」、自己犠牲こそ、この人間社会を「輝かしい」ものにするんだと、人々に「自殺のすすめ」を行っている。
おそらく、この二つの動画ほど、宮澤の「優性思想」が赤裸々に語られているものはないだろう。
(宮澤の「自殺礼賛論」は、「自然主義」に関係している。人類だけじゃない。生物はすべからく、ウイルスに感染して生きてきた。または、死んできた。つまり、それは「自然」な、本来の人間の姿だ、と言っているわけである。もっと言えば、ウイルスが生物のDNAを改変することによって、今の人間にまで「至って」きたのだから、私たち人間がこのウイルスの感染を止めてはいけない。ウイルス感染による

  • 大量死

が、「新たな人間の<進歩>」となって、未来の過酷な環境を生き残れる種を誕生させる限り、私たち人間は進んで「ウイルス」に「感染」して、死ななければならない。その死を「美しい」ものとして「礼賛」しなければならない。そうやって、次々と死んでいったくれた「神風特攻隊」の人たちの犠牲によって、たまたま生き残った、「次の世代の<優秀種族>」が「誕生」する、とorz)
まあ、大学教授なんていう人たちは、これくらいの「危険思想」を語るような人でないとやらないわけだw こんな、どう考えても「損」な仕事をやっているくらいだから、この社会に対しての、自分の扱いに対する

  • 恨みつらみ

がたまっているのが、大学教授ですからね。大学教授で、性格のいい人って見たことないでしょ。
対して、藤井が言っていることは、「このままじゃ日本経済が大変だ」に尽きている。そしてそれを、

  • 老人が死ぬのを防ぐために、若者の「経済活動」を禁止することによって、大量の倒産が発生する

という認識に対して、

  • 老人なんか死ぬがままにしておけ。それより、若者の「快楽」の方が大事だ。子供が修学旅行に行けなくなったら、その「想い出」は一生欠けたままになる。そんな「重大損失」を老人が若者に強制する権利はない。

と論陣を展開した。
しかし、ね。この二人のこの「ノーガード戦法」については、実は、ネタ元があった。それが、スウェーデンだった。スウェーデンは当時、被害の大きかった欧米の中で、比較的に「ノーガード戦法」を政策としていた。回りの国が次々と、ロックダウンをやっていた中で、最後までそれを拒否していた。
興味深いことに、藤井や宮澤がそのスウェーデンを礼賛しただけでなく、videonews.comの神保や宮台も、スウェーデンを礼賛した。そのとき、彼らが番組でさかんに言っていたのが、

の「礼賛」だった。つまり、ナチス・ドイツが行った「老人の<屠殺>」を日本もやるべきだ、という論陣をはったのだ。つまり、この含意はこうだ。新型コロナの重症の老人を、「屠殺」して、その分で浮いたお金で、若者は「快楽」を謳歌しろ、と(言うまでもないが、東浩紀がさかんに新型コロナに対する行動規制を「批判」していたときのロジックも、ほぼこの論調に同調した形で行われた)。
今、欧米では法的な「自殺奨励制度」ができている。つまり、自分で「死にたい」と政府に言うと、政府が殺してくれる。または、自殺の薬をその人が「飲んでいい」と<奨励>してくれる制度が、そこら中で採用されている。これに、videonews.comの神保や宮台が

  • これこそ、日本社会の<全て>の問題を解決するアイデア

だと、キャッキャウフフと番組で特集している。重症の老人を「屠殺」して、自殺したい人を「屠殺」しよう! それこそが「理想の夢の社会」だ、と。
なるほど。藤井がなぜ、あそこまで、新型コロナ政策に怒っていたのかは、ここに理由があったのか、と気付かせてくれたわけである。

藤井:社会保険料って給料の100%ってできないじゃないですか。せいぜい、3割とか4割なんですよ。そこで、上限になるんですけど、この上限になったときに、医療制度の方をなんとか考えるんですよ。スウェーデンなんかは、ものすごい手厚い医療・介護をやっているんですけども、80年代にそれでパンクする情況になったので、そこで、延命治療をそこで全部やめることにしたんですね。それで、いわゆる医療手術をしないようにして、寝たきり老人を基本的に一人もいない社会を実現しようと。その代わりに、寝たきり老人にならないようにするために、しっかり咀嚼ができるような、噛めるような訓練を高齢者の方にやってもらったり、しっかり、健康維持をするっていうことをやるんだけど、自分で食べれなくなったらそれは死期を意味すると、いう方向で国民的なコンセンサスをえるということも含めて寝たきり老人をなくすことを通して、限られた財源にもとづいて医療が高福祉でできるようにしているんですね。
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当時の新型コロナが大流行した初期において、実は、スウェーデンでは、老人ホームで大量の老人の「屠殺」が問題になっていた。つまり、新型コロナにかかった老人は

  • 殺された

のだ。それも一人や二人じゃない。大量の老人が殺された。なぜ殺されたかというと、上記の「屠殺」の条件を満たしてしまったからだw よって、それに対する、他国での批判的な報道に対して、スウェーデンの知識人は「猛反発」した。このスウェーデンの「姥捨山法」を彼らは

  • 科学的

と「自慢」していた。ある幾つかの「条件」を満たす症状になったとき、「統計的」に、その老人がその後に生きる「余命年月」が、ほとんどない、ということが論文などによって知られていた。よって、こういう人は

  • もう「殺していい」

人なんだと「証明」されているんだから、他国がスウェーデンを批判するのは

  • 誤解

なんだと反論したわけである。私たちは少し冷静になって考えてみようじゃないか。誰かの「善意」は、本当に善意なのか、と。そいつが、どういった

  • 思想

をもっているかは、その「善意」と無関係ではない。若者の「散財」を「礼賛」する活動家は他方において、老人の「殺人」を「欲望」しているかもしれない。これこそ「ユートピア」の「正体」だ...。