中田カウスによる吉本批判

FRIDAYでの中田カウスによる松本人志についてのコメントの記事は、なかなか考えさせられる内容になっている。

「今回の松本の件で大崎は『遠くから寄り添うしかない』と言ったでしょ。『ダウンタウウンを育てたのは俺や』とか言ってるけど、遠くから寄り添うのは親じゃない。何もしてあげられなくても、ずっとそばにおってやるというのが親でしょ。だから大崎は育てたのではなく操ってたんでしょう。以前にも新聞で『吉本での45年はダウンタウンがおったからや』と言ってたけど、ほんまにダウンタウン以外誰もおらんかったのか。『万歳なんかせんでもいい』とダウンタウン世代に向けて大崎が言っている間に一生懸命、劇場で漫才をやってた芸人たちが今の吉本を支えてるんじゃないですか」

今回の松本問題は、松本の問題のように一見見えて、実は違う。松本が若い頃から繰り返してきた

  • ファン食い

を「容認」してきた、松本の「上司」による、

  • 経営方針

にこそ、真の原因がある。つまり、前の社長の大崎だ。
大崎は今、吉本の社長を辞めて、大阪万博のトップになっているが、その大崎が今だに、松本の大阪万博をアンバサダーを辞めさせていない。ここには真の闇がある。
大崎の経営方針にどんな特徴があったのかを述べているのが、上記の引用だ。つまり、

  • 松本に代表される「東京のテレビの仕事」という「大金」を稼いでくる自社の芸人だけに、会社の「特権」的地位を与える

ということだ。大崎は、松本に代表される、東京のテレビの仕事を長年続けている自社の芸人を、一切の規制なしに「殿上人」として扱うことを全社に向かって、命令した。この地位に入り込んだ芸人は、トップクラスの成功者として、無条件に「貴族」としての地位を与えた。
つまり、この東京のテレビの仕事をもってくる大物タレントたちに対して、吉本という会社は、一切の「ガバナンス」を放棄した。つまり、彼らは

  • 好き勝手

に、やりたい放題のことをやった。そして、彼らがトラブルを起こしたとき、大崎は裏で、ヤクザに手を回して、このトラブルをもみけしてきた。
ときかく、大崎は「稼いでくる金額の多さ」ゆえに、松本を

  • 特別扱い

した。そのため、松本がどれだけ「コンプラ」的にアウトな行動をしても、誰もそれを止めさせることができなかった。そもそも、大崎がそれをやらせなかった。よって、松本は「裸の王様」として、好き勝手な蛮行を60近くになるまで繰り返してきた。
それに対して、中田カウスが言いたいのは、

  • 吉本劇場

の存在である。そもそも、吉本というと、劇場での「芸」を披露する芸人たちの集団というイメージが昔からあったし、今に至るまで、そういった活動を地元で続けている。こういった活動は地道で、小規模ではあるが、この劇場で評価された芸人が後から、テレビで活躍することもあるわけで、人材の育成という意味では、ずっと大きな機能を果してきたと解釈されている。
中田カウスは、吉本のこういった側面に注目する。
考えてみてほしい。松本が稼いでいた、東京のテレビ局の仕事は一見すると、未来永劫続く、平家の天下が未来永劫続くように思われたのと同じように、いつまでも続くように思われたかもしれない。しかし、奢る平家は久しからず。ただ、春の世の夢のごとし。そもそも、テレビのお金など

  • あぶく銭

だ。松本が切られたのは、そもそも松本が今まで稼いできたビジネスモデルが、そういう意味での、不安定な、世の中の世情が少し変われば、一瞬で失うような程度の地盤の上で行われていた、マネーゲームの一種だった、ということだろう。実際、今回の事件で、そもそも吉本芸人全体が、東京のテレビの仕事をなかなかとれなくなっている、とも聞く。
中田カウスが言っているように、昔の吉本の「劇場」に地盤をもっていた芸人たちは、けして、客に手を出さなかった。つまり、素人に手を出さなかった。つまり、それは

  • タブー

であって、その一線を破れば、どっかしらで「身の破滅に至る」という、畏怖があった。それは「掟」だったのだ。
ところが、松本は一切、劇場に関わろうとしないし、傍若無人に、大崎と二人三脚で、東京でやりたい放題やった、いわゆる

  • 田舎者

だった。このモンスターをだれも、なにも言えなかった。そもそも、吉本という会社において、異端であり、「ヨソ者」的な扱いだった。しかし、こうやって、その「化けの皮」が剥がされて、東京のテレビから、つまはじきにされてみると、そもそも、吉本という会社の中に、誰も松本を擁護しようという人が現れない。つまり、みんな、松本が

  • 嫌い

だった。みんな、「ざまーみろ」と心の中では思っている。早く、会社からいなくなれ。そうすれば、せいせいする、としか思っていなかった、ということだ...。