abemaの弥助問題のニュースについて

今日の夜9時からのabemaニュースで、アサクリシャドウズであり、弥助問題について話されるということで後半だけ見てみた。まあ、この感想については、5CHの実況スレッドでも見てもらえば、いろいろ感想は知れると思う。
まあ、早い話、物理学者の茂木健一郎が「細かいことは、どうでもいい。ゲームがおもしろければ、なんでもいい」みたいなことを言って、すべての細部の議論を行うことを拒否していたよね。発売前の商品に対して、不買運動をすることは、表現の自由に反している、みたいな。だから、とにかく買えるようになってから、その批評をすればいい、みたいな。
まあ、これによって一切の細部の検討は、不可能になった。
あと、存外に重要だったのが、加来耕三という人を「歴史家」と紹介して、その人が「弥助はサムライと呼ぶのは正しい」という論陣をはっていることを紹介していたところだろう。それによって、この弥助問題は、あたかも「解決」しているかように、この弥助を「サムライ」として扱おうとしているゲーム会社の姿勢を批判している日本人を

  • 無知

だとして、全無視していた番組作りでしたね。
加来耕三の主張は、

  • 帯刀して戦闘したから弥助のこと侍

となっていたわけで、今、議論されている文脈と不整合がある。ただ、番組で一人、アサクリ問題を提起していた素人の人は、ちゃんと弥助に名字がないことは発言していたので、彼として、やれることはやったんじゃないか。
まず、加来耕三は歴史小説家ですね。ただ、歴史関係の通俗解説本を書いたり、NHKや民放の歴史番組で解説者的な立ち位置で出演していたりするそうなので、そもそもこの人の学会での扱いについては、まったく知らない。
ところで、まあ、ネットで検索したら、この人のエッセイみたいなのがすぐに見つかりましたね。

plaza.rakuten.co.jp

この文章、タイトルは「アフリカ出身のサムライ」となっているが、ここでは「侍」の

  • 定義

の話はなにも書いていない。そもそも、本文には「侍」という言葉は、どこにも出てこない(そもそも、タイトルは「サムライ」とカタカナになっていて、漢字の侍とは書いていない)。
うーん。まあ、最初から嫌な予感はしていたけど、日本人の多くが思っている「侍(さむらい)」の

  • 定義

は、おそらく、欧米の人が日本人を指して使う「サムライ」という言葉に対して解釈するものとは、当然だが、まったく違っている。加来耕三の定義は、農民が盗賊として奪った刀をふりまわしていても、それを「サムライ」と呼んでOKだ、と

の通常のフィクションを作る感覚で語っている。それは、歴史の「混乱期」には、そういったダイナミックな「革命」がありうるんだ、といったような、ある種の「革命思想」を思わせるような、かなりトガった視点で発言しているようにも聞こえる。
しかし、当り前だが、一般的にはそういった「侍(さむらい)」という言葉の使い方は、基本的に歴史研究者はやらないんじゃないか。つまり、この言葉は、もっと「身分」とか(名字を与えられているか)、「土地所有」とか、当然、日本語での読み書きが高い身分の人たち並にできるかとか、そういった「回りが高貴な存在として見ているか」といったところがポイントだったように、どうしても思うわけだろうし、それが普通の感覚だと思うわけだ。
そう考えたとき、そもそも先ほどの、加来耕三の記事にもあったように、「信長の従者」なわけね。まあ、ある種の「ペット」だよ。信長は、そういった「おもしろがる」人として知られているわけで、世の中の「珍品」を収集する、性癖があるわけね。つまり、その延長のなにかでしかない。
まあ、少なくとも残っている文献から、そのくらいしか読めないわけだね。
ただ、これに対して、トーマス・ロックリーの小説だと、弥助は

  • 語学の天才

にされているんだろw だれがどう見ても、宣教師の「奴隷」として連れてこられたとしか読めないんだけど、トーマス・ロックリーにそういう「設定」にされてしまうと、もはや

  • なんでもあり

だよなw おそらく、トーマス・ロックリーは、加来耕三の書いたエッセイとか、そういったものにインスパイアされて、いろいろ想像をふくらませていったんでしょうね。だとしても、2014年から、弥助のウィキペディアを、未来の自作の論文を参照文献にして、自作自演の書き込みを繰り返していたっていうのは、ドン引きするくらいに、だれも擁護できないレベルの醜さだがw