公美子と仁菜の「自己犠牲」

アニメ「ユーフォ3」が原作改変されたわけだが、この変更、黄前公美子が全国大会のソリを落選するという変更は、そもそものこの物語のストーリーの決定的な部分が変わったわけで、この変更はそんな、よくある変更じゃないわけ。この作品の根底にあるメッセージがこれによって変わるわけね。だから、ずっとこの差異をちゃんと言語化したいなって、ずっと悩んでいるんだけど、そろそろこれも決着をつけたいね。
原作とアニメの共通として、部内では「公美子がユーフォのソリをやるべき」という意見がかなり大きくなってしまった、というのがある。部内の下級生たちが、ずっと一緒にやってきた公美子がやってほしい、と。
ところがアニメ版は、この滝先生と部員たちの対立は、関西大会で全国に行けたことによって解消したどころか、逆に、そういった部員たちは「真由がソリをやるべき」に意見が変わった、となっている。
これは完全にアニオリなのだが、ここに、私は多くの問題があると思っている。

  • だったら、全国大会のオーディションは不要だということを部員たちは滝先生に訴えるべきじゃないか? 関西大会のメンバーがいいと考える理屈もありうると思っている。なぜなら、早めにレギュラーを決めれば、レギュラーの間のコンビネーションを高めるための練習時間に多くを使える。
  • そもそも、これによって公美子が悩んでいて、あすか先輩にまで相談しに行った「部がバラバラ」の問題が、いつのまにか解決してしまっている。つまり、あんなに悩んでいた公美子が、最大の問題だと考えていたことが、公美子がなにもしないで解決してしまった。
  • だとするなら、公美子はソリのオーディションを辞退すべきなのではないか? すでに部内は真由で一致している。その状況で、公美子がオーディションに出場することは、せっかく「部がバラバラ」の問題が解決している状態を、わざわざ、むしかえす所業だと思うからだ。そもそも真由はそう考えて、辞退を申し出ていたわけで、なぜ公美子がそれをしないのかの理由がない。

ところで、このユーフォ3のアニメが、中国ではおおむね

  • 不評

だ、というのを以前に聞いた。その理由は、

  • 公美子は「部長」だから、部全体の調和を考えて、ソリを「辞退」したと解釈され、そういった部員のために部長が損をする内容になっていることが納得いかない

という理由だったわけだが、私はこれを聞いたとき、ずいぶんと感動したわけだ。というのは、こういった解釈はほとんど日本国内から聞こえてこなかったからだ。
なぜ日本では、こういった読解が出てこなかったのだろう?
ここで少し冷静になって、もう一度、この物語をふりかえってみよう。公美子があすか先輩を訪れたことは、公美子は本当に困っていたからだ。公美子は、本当に全国で金賞をとりたかったのだ。公美子はそのためには、なんとしてでも、部がバラバラだった状況を変えなきゃいけないと考えていた。ここで、少し、実際のアニメを離れて、思考を進めてみよう。まず、アニメ版で関西大会の直前に公美子はどんなことを言えば、彼女の目的は達成できただろう?

  • 公美子はみんなに向かって、自分は今後絶対にソリをやらない、と言った。つまり、ソリは真由にやってもらう、と言った。そうすることによって、大会までの長い時間を、ソリのコンビネーションを高めるための時間にたくさんあてられるようになるから。
  • それと同時に、公美子は音大を目指さない、と言った。音大を目指すような人はソリに選ばれるべきだろうから、ソリをあきらめた時点で、自分は音大を目指さない、と言った。
  • その代わりに彼女は、部員全員に「団結してほしい」、と言った。
  • それを聞いた部員たちは、「部長がそこまで言うなら」と、今までギスギスしていて、バラバラだった部内の雰囲気をやめて、部長を中心に一致団結しようと、みんなで心をあらためた。

どうだろう? こうやって解釈をするとなんとなく、説得力がでてこないだろうか? たとえばこれによって、麗奈の行動を整合的に考えることがきる。なぜ麗奈は、公美子と真由の再オーディションで真由に投票したのかは、

  • 公美子が絶対に自分を投票しないで、真由ちゃんに投票しろと言われていたから

と解釈される。麗奈は本当は公美子に投票したい。しかし、その公美子が絶対にやめろと言われていたから、やれなかったわけだ。
つまりこうだ。公美子は、全国大会で金賞をとるという目的のために、どうしても「部がバラバラ」という問題を解決しないといけないと考えていた。そしてその最後の手段として

  • 自己犠牲しかない

と考えた、わけだ。
なぜ私がこんな「妄想」を考えたのかというと、そもそも、アニメ版では、「なぜ公美子は高校教師を目指したのか」の理由が、どこにもないからなのだ。そして、なぜそれがないのかと考えていったときに、アニメ版においれは、公美子が音大を「あきらめた」理由として、バーターとしての、自分がソリをあきらめる代わりに、部が団結してもらう、という「取引」があった、と考えたわけだ。
そう考えると皮肉なことに、あすか先輩が公美子に「わがまま」に振舞えとアドバイスしたことが皮肉に思えてくるわけだ。つまり、あすか先輩がここで公美子の「わがまま」と言っているのは、あすかが大会に一緒に出てもらうことだったわけだ。それを、あすかは皮肉をこめて「わがまま」と言っているわけだけど、どう考えても、それが、あすか先輩にとって、うれしかったことだったわけだろう。つまり、あすかの言う、公美子の「わがまま」は、実際はわがままじゃない。どっちかというと、それ自体が、公美子の、相手のことを思っての、「自己犠牲」になっているわけだ。
ここまで考えてきて、これって、ガルクラにも言えるんじゃないか、っていうのに気付いたんだよね。
つまり、仁菜の高校での「いじめ」の件だけど、アニメでは、いじめられていた女の子をかばったから、今度は仁菜が「いじめ」られる側になったと説明されているんだけど、違うんじゃないか。だって、そもそも仁菜がそういう行動をとれば、今度は自分が「いじめ」られる側になることは、最初から分かっていたわけでしょ。
つまり、仁菜は、そのいじめっこに対して、「その子をいじめないでくれ。代わりに、私をいじめていいから」って言ったんじゃないか? つまり、仁菜の行動も、かわいそうな、いじめられている彼女を助けたいという、優しさの一心で

  • 自己犠牲

で行動した、と解釈できないか? ここまで仁菜に言われて、クラスの全員も「そこまで言うなら」と、その子へのいじめをやめて、仁菜にいじめの対象を変えた。だから、ひなは「仁菜が悪い」と言ったんじゃないか? また、おねえちゃんはそんな優しい妹に対して、「がんばったね」と言った、と。
そして、その元いじめられっこは、「そんな約束は取り消してくれ。そうじゃないと仁菜さんが、壊れてしまう」と言ったんだけど、仁菜はかたくなに、そのお願いを拒否した。絶対にその元いじめられっこにまた、いじめが向かわないようにするために。
しかし、それ以降、そのいじめはどんどんエスカレートして、仁菜の体の不調が大きくなりすぎたために不登校になって、学校を止めて、東京に出ていた。
うーん、不思議だな。こうやって「自己犠牲」によって解釈した方が、なぜかそれ以外のさまざまなストーリーの矛盾が、どんどん解決していくんだよねw なんでだろう?