サッカーを「最適化」してはならないw

ここのところ、サッカーのことばかり考えているみたいだが、昨日の記事を書いてから、そういえば、videonews.com で以前に、今福龍太さんがゲストで出演して、サッカー論を語っていたことがあったな、というのを思い出して、池袋のジュンク堂で彼のサッカー論の本を買って読んでいた。まだ、最初の方しか読んでいないが、基本的には番組で話していた内容が書かれている、といった印象だった。
今福さんといえば、ポストコロニアル論の書棚に置かれている方で、いわゆる

の系統の人だ。だから、本もそっち系の、哲学っぽい文体の文章で書かれているのが、読んでいる方がらすると、もったいない。こういった内容は、もっと「大衆向け」に語るべきなんじゃないかと思うわけで、そう考えるとvideonews.comの番組は分かりやすかった印象がある。
彼の主張は今のサッカーが

  • 危機

に直面している、という立場だ。つまり、そもそものサッカーの「サッカー性」が今のプロサッカーから失われている、となる。彼にとって、サッカーとは

  • ブラジル性

と関係している。彼にとってのイメージは少し前のプロサッカーがほとんどが、ブラジルチームが席巻していたイメージの延長にある。そして、それはそもそもブラジルという今、南米にある一つの国家とも関係ない。彼の言う「ブラジル性」は、そういった以前のブラジルサッカーがもっていた「理念」に関するものであって、一つの国家に閉じる話ではないのだ。
そもそも、人間はサッカーのように、足でなにかを操作するという行為を日常行わない。足は、基本的には上半身を支える「補助」的な位置付けで使われる「従属的」な器官として、

  • 二次的

な存在と考えられている。しかし、サッカーにおいてはボールを蹴る行為は「一義的」な行為として、主体化されている。この複雑な足の動き、足の関節の動きは、

  • 人間の脳

に革新的なニューロンの活性化をもたらす。彼にとって、そもそもサッカーとは人間が本来は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ存在)」であることを思い出させる存在であることが重要なのであって、それを否定する現代サッカーは似て否なるものなのだ。
現代プロサッカーを主導するヨーロッパプロリーグの特徴はなんだろう? おそらくそれは、

  • ブランジルの<否定>

から始まっている。ヨーロッパは、どうやってブラジルを倒すかを考えるところから始まった。そしてそれに応じて、彼らはそもそものサッカーの

  • ルール

を自分たちに有利なように変えてきた。ヨーロッパリーグのサッカーは、そもそも

  • 反則OK

だw その意味は、有能な世界の宝といってもいいような若手の選手を、体をぶつけて、タックルで相手を潰しても、たかだかイエローカードをもらうくらいで、別に選手生命を奪われるわけじゃない。だから、ヨーロッパリーグはどこでも、

が多く、多くの選手が故障している。そのため、選手生命が非常に短かい。どんなに、若い頃に才能があった人も、プロリーグで何年かやるだけで、廃人になってサッカーがやれなくなる。
そもそもヨーロッパリーグで選手はサッカーをやっていないw みんな、相手のユニフォームを手でひっぱって、引きずり回し、ぶん投げている。だから、彼らは

  • 筋力ジム

に通い、ベンチプレスなどを上げて、

  • 上半身の強化

ばかりやっている。分かるだろうか? そもそも、サッカーがうまくて、足元が上手は選手は、ヨーロッパの才能のない選手に恨まれて、試合で必ず、暴力をふるわれる。つまり、選手生命を失わせられるような怪我をおわされて、数年でその才能を潰されて、一線から去っていく。
ヨーロッパのサッカーリーグは、ブラジル選手に対抗する手段として、もともと身長が高くて、体格にすぐれているヨーロッパの白人が有利になるようにルールを変更した。白人がブラジル選手に、テクニックで負けても、体格の優位性で、タックルをしたり、服をひっぱたりすることを

  • ルールで認める

ことによって、どんどん、ブラジル選手にサッカーをさせない、そういった「接触行為」が日常化していった。つまり、サッカーは「アスリート化」していった。もともと、サッカーとは、キャプテン翼がそうだったが、子どもの頃からサッカーボールが友だちで、毎日サッカーボールを蹴っていて、ボールの扱いが極端にうまい人が活躍するスポーツであったが、近年のアスリート化によって、そういった

  • サッカーボールばかり子どもの頃に蹴ってた、体が小さく、か弱い若者

は、アスリート化された、筋肉隆々で足元の極端に下手な選手によって、故障させられ、選手生命を奪われるようになった。
町田の監督のように、私はそもそも、自分がプロの選手だったことがない人がプロの監督をやることに反対だ。それは、必然的に選手を

  • 手段

として使うことになり、極端な今のプロサッカーのルールへの「最適化」を行うことになって、もともとのサッカーがもっていた「慣習」的な

  • 良い風習

がなくなっていくことを意味し、サッカーの遊戯性、本来性が失われることになる。サッカーのルールは完全なものではない。もしも、サッカーが「ルール」の中での最適化を競うようになれば、サッカーはたんなる

  • スポーツ

となって、早晩滅びることになる。その流れは、近年のサッカーから「ドリブル」や「ファンタジスタ」が消滅の危機に陥っていることが象徴している。現代のサッカーのルールは、たんなる

  • 政治

が決めているものにすぎない。つまり、ルールとは現代の、どこかの誰から、さまざまな陰謀にもとづいて決めているものにすぎず、それに「従う」ことが、そもそものサッカーの「サッカー性」「遊戯性」を否定することになり、人間の

  • 奴隷化
  • 隷従化

を進めることになるのだ...。