日本語の起源

こういう質問をすると変に聞こえるけど、古事記日本書紀を「読ん」だことはあるだろうか? もちろん、その

  • 原文

なんて言ってもよく分からない。ここで言いたいのは、例えば、岩波文庫のような、現代語訳ではなく、原文と、注釈だけがある文章だ。
これを見ると、まず気付くのが、確かに漢字が並んでいるけれど、これを「漢文」そのものと考えると0、なんか、変な文章になっている。特に、古事記がそうだ。
いや。おそらく、そう断って書いているんだと思う。だから、基本的にはこれは「漢文」なんだと思う。しかし、おそらく、

を、

  • 聞こえるまま

に「記述」しているんじゃないかと思われる個所が、大量にあるわけだ。これをどう考えるのか、というのが、本居宣長などが古事記解釈を行うときの課題だった。
間違いなく、古事記日本書紀を書いたのは中国の文官だ。彼らは、日本に渡来して、こうやって日本の「歴史」を書く事業をやらされる。しかし、その場合、問題は当時の現地の人たちの「話し言葉」だった。それを、

  • 残す

とは、どういうことなのか、を決めなければならない。まず彼らがやったのは、漢文から、その日本語の「話し言葉」の発音に似た漢字を「並べる」ことで、その「話し言葉」を

  • 記録

する手法だ。これは、その漢字の「意味」を考えてはいけなくて、あくまで、この漢字の羅列が、なんらかの、当時の日本語の「話し言葉」の発音の音と「対応」している、ということを、読んでいる人に気付かせなければならない。しかし、それは容易だっただろう。というのも、前文でそう断ってもいいし、そもそも、さすがにこんな変な「漢文」はないから、なにか意味のある「暗号」なんだろう、とはさっせられるから。
しかし、いずれにしろ、これはなんというか、かなり「はっきり」した内容であるわけだ。つまり、本居宣長は、明らかに、漢文ではない、なんらかの「話し言葉」が、ここには記録されている、ということに、さすがに気付く。
つまり、ここに明確な「分断」があるわけである。
日本に、「漢文」が入ってくるとき、そこには一緒に、中国人も入ってきた。しかし、彼らが日本に来たときには、すでに、日本に住んでいる人がいて、彼らは、「話し言葉」を話していた。
じゃあ、これはなんなの?
当然、そうなるよね。ところが、本居宣長はそういったふうに、話を展開しなかったorz 彼は、とにかく、古事記

  • 内容

を、まさに「宗教」として「信仰」したわけだ。その意味は、彼は、古事記が語る「天皇」を「神」として信仰する。そして、その延長で、「天皇」を「神」として信仰しない日本人を

  • 怒った

わけだよね。彼は、とにかく、怒ったわけ。「天皇」を、とにかく、あがめたてまつらない日本の、あらゆる「文化」に、怒りを徹底的にぶつけた。そして、これが、明治以降のスタンダードになった。
明治以降の日本を特徴づけるのは、

  • 天皇を「神」として「信仰」しない文化に対する、徹底した怒りの表明
  • それ以外のことに対して、まったく、日本人が他人に怒りをぶつけない

この非対称性にあったと思うわけである。前者を知らない世界の人は、日本人はとにかく「温和」な民族なんだなと考える。それは今もそうで、犯罪が極端に少ないとか、世界でも治安がいいとか言われる。
しかし、そういった外国人は、そもそも日本では「右翼」というのがいて、少しでも、天皇への「信仰」を軽視したようなことを言うと、地獄の底まで、粘着してきて、天皇への不遜を働いたことを理由に、

  • 怒り

をぶつけられる、という「個人的な体験」を見たことがないわけだ。
なぜ、日本は治安がいいのか? それは、天皇制によって、日本の右翼が、日本中のつつうらうらを監視の目を光らせているから、に尽きる。少しでも、反天皇と受けとられかねないことを言うやいなや、夜も寝る暇を与えないような、連日の抗議行動で「怒り」をぶつけられるわけで、このことは、高額の消費者ローンにひっかかって、借金取りに連日、とりたてられる体験と変わらない。
本居宣長が凡庸なのは、

  • もしも、中国の文官たちが、日本には中国の言語とは違った、現地の「話し言葉」があると発見したなら、それが、どういうものなのかを突き止めようとしなかった

ことにあると言えるだろう。具体的には、

  • その「話し言葉」を話す人たちは、どのように、世界中で分布しているのか?
  • その「話し言葉」は、いつ、どの地域で生まれて、どのように世界中に広がったのか?

ということになる。
本居宣長は、自分の目の前にある、古事記の「内容」を詳らかにすることに全精力を注いだ。しかし、そもそも歴史書とは、中国の伝統を見ても、当時の権力者が「都合のいい」話を捏造することは当たり前だったわけだ。
あらゆる歴史書は、当時の例えば、多くの残されている「日記」などによって傍証されることなしに、真実とされることはない。ところが、この当時のヤマト政権においては、そういった、これらと相等するような文献が他にないのだから、単純に「ここ」に書いてあることで、真実を決定することはできないはずなのだ。
例えば、以下の動画だが、ここでは最初に「日本語の起源は今でも謎に包まれている」と語っている。「和語」は「今だ、数少ない正体不明の言語」だと言っている。

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同じように、例えば、ウィキペディアで「日本語の起源」を見ると、同じように、まだ未解明だ、みたいなニュアンスで書かれている。
しかし、である。ここで「謎」と言われているということは、

  • 科学的にまだ解明されていない

ということを意味する。つまり、まだ科学の「未知」な部分が存在するんだ、と言っているわけである! もしもそんなものがあるなら、世界中の科学者がこの「謎」に挑まないわけがないだろう。つまり、なにかが変なわけであるw
なぜこの「謎」は解明されないのか? いや。なぜ、この「謎」は解明されていない「ということになっている」のか? 本居宣長的なアプローチからは、こっちの方が興味深いわけだ。
例えば、以下の動画では日本語が「孤立」している、という言い方に注意をしている。

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例えば、モンゴル語が、契丹語、ナヴァール語などとの系統によって、鮮卑モンゴル祖語が辿れるだろうと仮説を立てているが、そもそも、契丹語、ナヴァール語が滅びていて、すでにそれを話している人がいないために、その

  • 系統

が辿れないことが、一見するとモンゴル語が「孤立」しているように見えている要因なのだろうと説明している。
同じような問題が、日本語の起源についても見られるとしている。今から2000年ほど前に、九州付近に、日本語と琉球語の共通祖先の日琉祖語が存在していた。また、当時、東北地方にあった東国語、朝鮮半島にあった扶余語の二つが、あった。しかし、この二つは滅びて今はなくなっている(東国語は万葉集古今和歌集に少し残っていて、アイヌ語の中にも、わずかに残っているとされている)。
例えば、以下の動画では、日本語の系統の言語(「SOV」の文法や、膠着語)が世界中に多く存在して、さまざまな点で日本語に似てさえいる、ということが説明されている。

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まあ、いわゆる「アルタイ語族」と呼ばれてきたものなのだろうが、この仮説は日本ではまったく研究されなくなってしまったと動画で語られていたが、ところが、

  • 欧米

では、今もさかんに研究されている、と動画で語られていた。はて。なんで、こんな差異が研究者の間で出るんだろうね?
ところで、その延長で考えていいんだろうが、例えば、去年だったか、以下のニュースが話題になっていた。

mainichi.jp
note.com

ここでは、この日本語に「似た」世界の言語を「トランスユーラシア語族」と呼んでいる。その「起源」として、中国南東部の、西遼河流域で、9000年前に住んでいた黍(きび)・粟(あわ)農耕民だった、としている。そして、彼らが日本に来たのが、3000年前だ、と。
そして、彼ら話していた言語がその後、日本列島のドミナントな言語となっていって、それ以前にいた人たちが話していた言語がアイヌ語となって残っていったんじゃないか、と紹介されている。
じゃあ、なんでこんなことまで言えるのかって話になるけど、先程の系統樹と同じわけだ。人間の「遺伝子」は、死んでも、その骨などに残っている。これを調べると、彼らの「移動経路」に対応して、その

をたどることができる。これから、どういった人の移動があったのかは、一定のサンプル数によって、おおよそ推測できるようになる。
(例えば、上記の動画でも中国語は短い文章では、英語と同じ「SVO」の文法だが、長文になると、日本語の語順に近い形になることもある、とあったが、もしかしたら、こういった系統の言語の特徴が、なんからの形で、中国語の中にも残っているのかもしれない。)
しかし、この話。なかなかに一部の人たちにはショッキングに思えたんじゃないか。もちろん、

  • 戦前の皇国思想を今でも信じている日本の右翼

たちには、まともに直視できない危うさを感じるかもしれない。なぜなら、本居宣長によって「発見」された、

  • 話し言葉としての「日本語」の、中国語との決定的な「差異性」

こそが、そもそもの日本を決定づける「神話」だったからだ。
同じような話として、よく、「古事記日本書紀以前には日本では書かれた書物はなかった、つまり、話し言葉しかなかった」みたいに言われるが、今ネットで調べてみれば、

でたくさんヒットする。つまり、縄文人は文字がなかったというより、なんらかの「象形文字」的なものは使ってた、ということなのだろう。ただし、その表現力としては、あくまでも日常的な会話の延長でしかなく、中国の歴史書であり、それに相等するような表現力をもったものではなかった、ということなのだろう...。

天王寺璃奈と「ぼざろ」

アニメ「ぼっち・ざ・ロック」について、いろいろと書いてきたのだけれど、やはり、もう一つ考えておかなければならないとがあるんじゃないのか、と思うわけである。
例えば、以下の方は、アニメ「ぼざろ」を根本的な視点から否定している。

m.youtube.com

その理由は、ここで何度も繰り返し出てくる概念の「コミュ障」が理解できないから、と言っている。その理由は、なかなか深いと思っている。
まず、この「コミュ障」という言葉は、非常に最近使われるようになった、ということがある。つまり、

  • ロックの歴史

を基本的に「肯定」してきた評論家たちは、そういった過去になかった概念が、過去の、さまざまなアーティストたちの「価値観」と衝突する可能性を考えることに、危険さを感じているわけだろう。
こういった観点は、例えば、コーネリアスの小山田圭悟が、この業界において、長い間、「黙認」されてきた、ある種の

  • 共犯関係

が業界と、アーティストの間にはあったんじゃないのか、ということを疑わせる。
しかし、他方において、そんなに単純なのかと考えることには意味がある。まず、昔のロックバンドにしても、例えば、不良漫画にしても、そもそもそこには、

  • (日本的な)「いじめ」
  • コミュ障
  • 陰キャ

といった「概念」がなかった。つまり、そういった概念が、彼らが生きている、さまざまな表象に適用されることはなかった。
そこにあったのは、(上記の動画でも説明されているように)新自由主義的な

  • 自己責任論

だったといえる。クラスで、誰とも友達がいないことは「そいつが、ちゃんとしていない」から、と、むしろ、

  • いじめられっ子の方が「責められる」

関係が普通だった。
ようするに、ロック歌手にしても、不良漫画にしても、そういった「マッチョ主義」に一貫して彩られている。つまり、それまでの「世界観」においては、それが普通だと社会的に受けとられていたわけだ。
日本のロックの歴史に「価値」があると語る評論家は、そういった過去のロック歌手が語ってきた「マッチョ主義」に「共感」するがゆえに、これを評価し、引き継がないとならないと考えている。よって、こういった過去のカリスマを「否定」する発言は、どうしてもできないわけだ。
だとするなら、一体、いつから、この「社会関係」は変わったのか、と問うことには意味があるわけだろう。
例えば、70年代の全共闘世代くらいまでは、子どもの社会はもっと「原初的」だったと言えるだろう。そこには、

  • 強い奴が弱い奴を守ってやらなければならない

といったような、カント的な「義務」概念が普通に(アプリオリに)受け入れられていた。
ところが、90年代くらいから、「いじめ」という概念が一般に使われるようになる。ここにおいては、そもそも、学校という場所が、

  • 教師が生徒を「管理する」

場所として、より先鋭化していった、と言えるだろう。子どもはもはや、教師による「管理」なしには存在しない、と考えられていった。つまり、より「教師」の「好み」「恣意性」が極大化していくようになった。教師は、

  • 自分と気が合う

「優等生=いじめっ子」の子どもを、無自覚に「優遇」するようになる。つまり、教師がより「いじめ」に、共犯的に関わるようになる。教師は、自分の「お気に入り」であり、話してても楽しい「陽キャ」の優等生を、感情的に優先するようになる。それと相反的に、彼ら優等生が「いじめ」ている、教室の陰にいて、教師に関わってこようとしてこない「陰キャ」を、

  • 反抗的

と考えて、「感情的に」いじめるようになる。それは、「生理的」な反応だったとも言える。日々のストレスの中に置かれている教師は、他方で、常に、そのストレスの捌け口としての、

  • 暴力の向け先

を「感情的」に求めるようになる。
劣等生とは、「教師が求める規範」に合わせて行動できない子どもたちのことを言う。彼らは、教師から見て、「反抗的」と写る。教師は、そういった生徒が「なぜ自分の言うとおりに振る舞わないのか」というのに、常にイライラするようになる。
しかし、である。
こういった「価値評価」は、そもそも、授業カリキュラムの内容が強いている、と言うこともできる。教師は、たんに、そういった授業カリキュラムの価値を

  • 内面化

しているだけ、と考えることもできるわけだ。
当たり前だが、なんらかの実技の「熟達度」は、さまざまな要因が関係している。まず、早生まれや遅生まれかによっても大きく違っている。
そもそもそれは、「個性」だ、と考えることもできる。なにかであることは、「多様性」の観点からは、それそのものにおいて、肯定されなければならない。こういった多様性の価値観を共有しようとしない教師は、平気で生徒を

  • 序列化

して、自分の「お気に入り」の生徒と、自分の「嫌い」な生徒を分けて、

  • 差別

を行うようになる。
ここで、ぼざろの第1話を考えてみよう。まず、ぼっちちゃんは、中学高校と、

  • 一人も友達がいない

とされている。このことの「異常さ」に注目しない大人は、潜在的に、過去からずっと「いじめ」をしてきた側、と言ってもいいだろう。
昔の日本であるなら、「強い者は弱い者を守ってやらなければならない」という倫理があった。だから、当然、クラスの「人気者=一番強いヒーロー」は、そういった、クラスで除け者になっていた子どもに

  • 積極的

に関わって、そういった「置いてけぼり」ができないように、倫理的に振る舞っていた。
ところが、である。
「いじめ」という概念が当たり前になった90年代以降、そもそも、クラス内の序列関係が変わった。まず、優等生とは「教師に阿(おもね)る」存在のことと同義となった。彼らは、そもそも、クラス内の他の仲間たちに興味がない。というか、彼らは、自分の成績を上にすることにしか興味がないから、教師としか「仲良く」ならない。彼ら優等生は、教師が

  • 嫌い

な「不良」たちを、教師に阿る形で、陰で馬鹿にするようになる。まさに、ここにおいて、

  • 教師と優等生の「共感」関係

は極大化する。
つまり、学校社会自体が、

  • 非倫理的

な場所に変わっていったわけである。
学校とは、自己中心的で、自分の成績にしか興味のない連中が、劣等生を「いじめ」るという

  • 娯楽

で、ストレス発散をしながら、自分「だけ」が東大に入学する、

  • 社会的な差別「再生装置」

になり下がっていった。つまり、学校に行くこと、そのものが「非倫理的」な行為となっていったわけだ...。
ただ、ここでは、ぼざろのストーリーに注目しよう。ぼっちは確かに、友達がいない。しかし、この作品世界では、必ずしも、ぼっちは「いじめ」られていない、とされている。
例えば、ぼっちが、クラスメートが日本のロックの話をしているのを聞いて、彼女たちに話しかけようとする場面が、アニメで登場する。そのとき、それらのクラスメートは、

  • 後藤さんが話しかけてくるなんて、めずらしい

と言って、必ずしも、彼女の名前を知らないわけでもないし、彼女と「壁」を作っているわけでもなさそうなストーリー展開にしている。
つまり、ここだけを見ると、なんというか、ぼっちに話しかけようとしない回りの生徒たちの

  • モラリズム

のようなものが、伺いしれるわけである。まず、

  • 本人が要求してこない限り、相手の内面に介入しない

という、都会人の「倫理」が働いている。つまり、ぼっちは

  • 自己表現

ができない。しかし、回りはそれを「本人が望んでいない」と考えて、相手の内面に入っていこうとしないわけだ。
このことは、アニメ最終話の、学園祭のライブの場面を思い出してもいい。ここで、クラスの子どもたちは何度も何度も写される。そして、彼女たちは、のりのりでバンドの音楽を楽しんでいるように思われる。そこには、ぼっちへの「敵」的な攻撃性は見当たらない。実際、ぼっち(=後藤さん)への、さまざまな声援さえ、聞こえているわけだ。
クラスの子どもたちの、ぼっちに対する「ディスコミュニケーション」は、どこか

  • 現代的

な「モラル」の臭いがする。それを「新自由主義的なモラル」と呼んでもいい。つまり、とにかく「一線」を超えてくる

  • 強者

しか、まっとうな人間として扱わない、という「差別主義」だ。彼らは、それを無意識に内面化している。つまり、こういった規範を内面化している

  • 普通の人

しか現れない、という形で、学校のクラス内は「ノーマライズ」化されている、と言うことができる。
対して、この一線を逸脱してくる

  • 他者

として、虹夏やりょう、廣井きくり、などが登場してくる、と言ってもいいだろう。彼女たちは、まったく違った視座から、ぼっちを

  • 発見

して、積極的に、ぼっちに関わろうとしてくる。ぼっちは、こういった関係の中から、自らの人間性を見つけていくことになる。
第一話で、ぼっちはダンボールの中に入って、バンド演奏をする。そもそも、家の中の押入でしかギターをひいたことがない彼女が、いきなり、ライブハウスで、人前で演奏することが無理だったことは理解できるだろう。
しかし、この話を見たときに、ほとんど反射的に、私は、ラブライブ虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

のことを思い出した。テレビ版1期において、彼女は、ステージでのパフォーマンスが自分には出来ない、ということを、同じ同窓会の仲間に訴える。その理由は、彼女が

  • 人前で、うまく笑えない

という理由だった。つまり、人前で自然に笑える自信がない、という訴えだった。結果として、同窓会のメンバーたちのアドバイスもあって、彼女は

  • 璃奈ちゃんボード

という、顔を隠す、電子ボードをかぶり、そこに、「電子的な笑顔」を写すことで、ステージでのパフォーマンスを行うことになり、これが彼女の、その後のスタンダードなパフォーマンス姿として確立していく。
この二つを比べたとき、ここに「大きな違い」があることが分かるだろう。
まず、虹ガクの場合、この話は、その話数で「完結」している。つまり、この話数は「璃奈ちゃん回」となっていて、次の話数からは、また別のメンバーにフィーチャーされて、この話が蒸し返されることはない。
他方、ぼざろでは、ぼっちがダンボールで演奏したのは第1話だけで、それ以降は、もうダンボールを必要としていない。そういった形で、一方で

  • ぼっちの成長

を描きながら、他方で「なにも変わっていない」ぼっちのコミュ障ぶりが、手を変え品を変え、次々と描かれていく。これを見ていると、視聴者は、そもそも、ぼっちは成長しているのか、成長していないのか、さっぱり分からない感じで困惑させられる。
虹ガクの璃奈は、璃奈ちゃんボードをずっと使い続けている。このことは、ぼっちがずっと、ダンボールの中で演奏していることと同値である。なぜ、璃奈ちゃんはそうなのか? それは、そもそも

  • なぜ、それが駄目だと思うのか?

という、かなりクリティカルな問題と感じられる。彼女は、すぐには変われない。だとするなら、今はこのままでいいじゃないか。それを受け入れるのは、回りの人たちである。私たちが、彼女がそうであることを受け入れればいい。璃奈ちゃんボードは、ある種の「VTuber」を受け入れるファンたちの暖かい視点だと言っていい。
最近、ホロライブの星街すいせいが、THE FIRST TAKEに、VTuberとして始めて登場したが、その回のコメント欄は、かなり荒れていた。その理由は、一部の、こういったアニメやVTuberといったものに、差別感情をもっていた、純粋な音楽ファンが、自分たちの

  • 領域

を汚された、と受け取ったからだ。なぜ、そういった純粋な音楽ファンが、こういったアニメやVTuberを排除するのかは、そもそも、そういった人たちが、

  • 今までの人生で、そういったものと関わってこなかった

ことと大きく関係している。これを「食わず嫌い」と言ってもいいが、そんなに簡単なことじゃない。彼らは彼らなりのプライドがある。つまり、音楽業界は、そういったアニメやVTuber的なものに「こびる」ことなく、独立に価値を訴えられる、素晴しい世界だと思っているから、そういったものに「汚れる」ことへの生理的な嫌悪があるわけだ。
しかし、である。
そもそも、過去から考えたとき、こうやって「アニメおたく」たちは、さまざまに社会から

  • 差別

をされてきた。もちろん、そういった評価には、一定の理由がなかったとまでは言えない。しかし、他方において、「アニメおたく」たちは、璃奈ちゃんを「そのまま」で受け入れてきたように、とても

  • 暖かい

「優しい」コミュニティを作ってきたとも言うことができる。
ここで、もう一度、アニメ「ぼざろ」一期の作品の全体像を考えてみよう。そうしたとき、そもそも、第一話で、ぼっちはすでに

  • 文化祭で自分が演奏する

ことを「夢」として語っている。まだ、一人も友達のいなかった、そんな段階から、この「文化祭での演奏」を「夢」として語っている。この作品は一貫して、この

  • フラグ

に対する「応答」として作られていることが分かる。さまざまないきさつによって、彼女は最終話において、実際に、文化祭でバンド演奏をすることになる。そして、その場には、ほとんどのクラスの子どもたちが見て、応援してくれていて、ある意味でこの姿は彼女がずっと、思い描いていた

だったと言ってもいいだろう。しかし、である。彼女は、本当にそれだけ、では終わらなった。2曲目が終わって、喜多ちゃんにマイクを向けられて、まったく、なにも話せなくなるのは、

  • いつもの「ぼっち」

だった。つまり、彼女はなにも変わっていなかったw それは、この「事件」をどう考えたらいいのかを戸惑わせるものだったと言ってもいい。確かに、彼女の夢は実現した。しかし、それは、彼女が本当はこうありたかった、といったような

  • かっこいい

だけの姿じゃなかった。まったくもって、「いつも」の彼女だったw しかし、たとえそうだったとしても、これ以降、彼女を見る、クラスの子どもたちの視線は変わる。これを成長と言っていいのかどうなのかは分からないけど、一つだけ言えることは、これこそが

  • 青春

だ、ということだ...。