この本は、京都学派の西田幾多郎と、日本原理社の蓑田胸喜を、オーバーラップさせて、分析していく。このやり方は、前著の『丸山眞男と平泉澄』での、二人の比較に似ている。
蓑田胸喜と平泉澄は、最近、出版された、立花隆『東大と天皇』で、それぞれ、一章以上かけて、分析されている。戦後60年以上たって、あいかわらず、右翼的なものが、ずっと一部ではあっても続いている状態を、学者の人たちに、戦中の右翼思想の分析を強いているのかもしれませんね。
蓑田は、天皇機関説の美濃部達吉への糾弾で有名ですが、それと、京都学派への批判が主な活動だったようです。トップを叩けば、自然といいものが生まれる、だそうだ。蓑田の帝大哲学科・京都学派批判に、その大学から忠臣が生まれていないじゃないか、というのがあった。まさに、「顕教」に基づいた批判で、「顕教」さえもちだせば、明治憲法下では、無敵なんですよね。だれでも、それだけで、勝馬に乗れる。
ただ、日本原理社そのものは、日蓮に基づいた活動で、仏教色が強いし、ほかの、右翼批判もしているという話なんですよね。明治憲法下の、仏教系の活動というのが、どういうものだったのか。
結局、印象的だったのは、蓑田胸喜と、彼が属する、日本原理社の最後の部分ですね。太平洋戦争がさかんになる中で、京都学派も表だって、活動ができなくなっていく。政治の中枢や、軍内部の、権力闘争が激しくなる。陸軍と海軍の衝突もある。その中で、自分たちの主張を実現するために、政治内部でのポジションを確保しようと人を送りこむような努力が感じられない。まさに空中戦だったということが、何度も強調される。
「日本」への問いをめぐる闘争―京都学派と原理日本社 (パルマケイア叢書)
- 作者: 植村和秀
- 出版社/メーカー: 柏書房
- 発売日: 2007/12/01
- メディア: 単行本
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