姜尚中『ナショナリズム』

この本は、今までの、いろいろな、日本のナショナリズムの問題を、一冊にまとめたような内容で、よく整理されていると思う。
儒教での、親子の孝に対して、国家・天皇に対する忠の、「教育勅語」での優越性の論理。「軍人勅諭」と、西周「兵家徳行」、山県有朋「軍人訓戒」の関係。「軍人勅諭」を暗記・暗唱させることによって、ただの、大衆にすぎない庶民の心に、「朕」が居座り、語りかけ続けるようになる、宗教的な手法。あまりにコンパクトにまとまりすぎていて、よく分かりずらいのだが、読み返すたびに、いつも新しい発見をさせてくれるような本だ。
結局、明治以降を見ると、表面的に庶民の間に実行されたことを見れば、立憲君主国としての、法治国家なんですよね。まあ、他方で、軍隊がありまして、かなり、早い段階から、周辺国に対して、侵略的な行動を、少しずつ、続けていたわけですが。
で、問題は、その明治の始めからでいいでしょう。どうして、そのような、一見、表面的には、法治国家であり、かなり、厳密に、法治国家の体裁を守ろうとした国が、実質において、関東軍の暴走から、軍を誰もコントロールできなくなり、あのような、ジョージ・オーエルの『1984年』のような、国民、一人一人の精神を、極限まで管理していくような、ウルトラな統制国家として、暴走していったのか、なんですね。
それは、司馬遼太郎のように、明治・大正は、すばらしい、なんて言っているようじゃあ、なにも言っていないに等しいわけです。そりゃあ、一見、いいような面もあります。いいこともしているでしょう。でも、そうじゃなくて、その、明治・大正にこそ、すべての、萌芽であり、元凶が、その最初から、内包していたんだ、と考えるわけです。
このことが重要なのは、実に簡単に、上記のような、社会世相・国家体制は、復活するだろうからです。世の中の、いろいろな勢力が、さまざまな野望を胸に、なんとか、国民の心をコントロールして、統制してやろうと、手ぐすねしているわけです。こういったことに対して、平和とか、安定とかは、なんの関係もありません。むしろ、そういった時期が続くことこそ、さまざまな、腐敗が定常化して、バベルの搭のように、根源的な崩壊の序曲となっているわけでして、一言で言えば、啓蒙の時代は、なにも終わっていない、ということです。あいかわらず、今世紀に入っても、時代の課題は、唯一、宗教批判だけであり、それしかない、ということです。
なさけないのは、今でもそうですが、あの戦争において、「国のために戦ってくれた」「国のために命を投げ出してくれた」とかという表現を平気で、「国の側」が、使うわけです。でもまず、形式論理的に、それは嘘でしょう。誰でも、赤紙が来たら、強制的に軍隊に入らなければならなかったわけです。それを拒否することは、違法で、逮捕され、まともな国民生活を送れなかったわけです。だから、「国が無理矢理、人殺しをさせた」でしょう。それに感謝ってなんですか?例えば、今のドイツには、兵役拒否の制度があって、兵役の期間、なんらかの、ボランティアを自分で探してする、とか、いろいろありますね。もちろん、今でも、法治国家だの、代表民主制で決まったことを、シュクシュクやってだの、...なんて、モゴモゴ言ってるやつはいるんでしょう。だいたい、いつから、代表民主制にそれほどの錦の御旗があることになったんですかね。そもそも、民主主義から、ファシズムは生まれているんですけど。さらに、そもそも、いつから国家は自明のものになったんでしょうかね。もっと、庶民の個人の倫理に引き寄せて、重要なことがあるんじゃないですか?
そうやって考えていくと、戦前における、一番の大きな問題は、子供の教育や啓蒙が、完全に、国家に従属して、独占され、国民が完全なマインド・コントロール状態に置かれていていたとういうことなのかもしれませんね。そのことは、現在の保守派もわかっていて、安倍が国民のさまざまな要望を一切無視しシカトし振り切って、たんに保守派という一部の過激派内部だけの宿願でしかない、教育改革に、全勢力を注いだ、というのは、象徴的かもしれません。そういった国家からの隷属から、なんとか、教育を取り返すことこそ、最大の問題なのでしょう。

ナショナリズム (思考のフロンティア)

ナショナリズム (思考のフロンティア)