柄谷行人「他者・契約・共同体」

青野總さんとの対談。
前に、エリック・ホッファーの本を読んでいて、彼が「挿絵のない本」を探して読んでいる、といったことが書いてあった。それは、たんにそういった絵というものが好きじゃないというのもあるだろうが、やはりユダヤ教的な、偶像崇拝の禁止と関係はあったのだろう。
しかし、偶像崇拝というのは、そういう感覚はわかる気もするが(実際、写真は、自分は好きではない)、感覚は分かるんだけれど、それを理論的に説明しようとすると戸惑う。別に自分はユダヤ教徒ではないんですが。
かなり前のものですけど、一応、柄谷さんは以下のようなことを言っている。

ユダヤ教というのは、いま言われたように基本的に偶像崇拝の禁止ですね。偶像とは何かと、ぼくもいろいろ考えたけど、結局、ナルシシズム、または共同体のことだと思うんです。ペイガニズム(異教)という言葉があるでしょう。ペイガニズムというのは、もともとは農民の信仰という意味らしいんですね。要するに、異教というのは、共同体の信仰なんですよ。それに対する徹底的な否定、それが偶像崇拝の禁止なんですね。/フロイトが書いているけど、19世紀までの女性が、男よりどうして知的に劣っていたかというと、性的な抑圧があったからだ、というわけです。べつに、性的に解放されていれば知能がよくなるというわけじゃないんですけれども、ある種の抑制をしていると、思考能力が停滞するというのは正しいと思うんです。たとえば日本でいえば天皇制とか、その国の偶像崇拝に拘束された場合の人間は、どんなに物を考えても、まず思考能力が制限されている。それに対して偶像崇拝を禁止しているかぎり、思考能力は発達する。これはIQの問題ではない。

本当は、もっと、その偶像崇拝的なものへの嫌悪感のようなものをいろいろ考えて書きたいのだけど、今はあまり考えていないので、また別の機会に。