加納実紀代『戦後史とジェンダー』

いろいろな話題にふれているが、まず、戦中から、戦後すぐに、子供だった世代の女性に、いろいろアンケートした内容にふれた論文がある。それにしても、日本の女性にとって、戦中と比べて、戦後は、法律的な面で、ひっくり返った言っていいくらいに、ものすごく変わった。いろいろんことがあったし、女性でも、いろいろな教育的な違いや経済的な違いはあって、いろいろ違っていたとしても、そのことがどれほどの変化であったのかを考えることは興味深い。
次に、柏崎の原発の話がある。つい最近、新潟に地震があったが、その時、柏崎の原発は、緊急停止した。驚くべきことに、完全に真下に震源があった。世界的には、あれだけの地震があっても、被害がほとんどなかったことへの技術力の高さが言われたが、逆に言えば、チェルノブイリの再現となって、日本そのものが誰も住めない国家になっていても不思議でなかったのだ。想定外なんてもんじゃない。真下に震源があるんだから、なんでもありうる以外のなにものでもないでしょ。完全な地獄絵図を残したまま、日本に住んでいる人はそのとき、この地球から消えていたかもしれない。テレビや雑誌マスコミは、広告を電力会社からもらってるから、最近じゃほとんど話題にもならないで、柏崎は今すぐにでも再開しようなんて感じでしょう。どれだけ、わかってるんでしょうかね。
最後に従軍慰安婦の話題だ。この本の中に、韓国のある女性が、「男が命を国に捧げるなら、女が国に自分の操を捧げるのは当然」というようなことを言ったというようなエピソードがあったが、従軍慰安婦というのは、たしかに、保守主義の、陥穽そのものであろう。
国家については、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」ですね。人間は死ぬ。それも、完全なまでに、なんの意味もなく。しかし、庶民は、それに耐えられない。なんらかの意味を求める。その意味を提供してきたものが、国家だ、というわけだ(もともとは、それは宗教が提供してきたものだが)。
それが、明治における、天皇中心の皇国史観国家においては、天皇の命を捧げる、皇軍として殉死することで、ヤスクニとして神になり、命に意味と永遠が付与される、というわけだ。
では、国家への忠誠というのは、結局、なんなのか。論語孟子などの儒教の初期において、あきらかに、国家への忠誠は前景化されていない、少なくとも、家族単位の孝の民間習俗を、なによりも前提にしているように見えるところからも、国家への忠誠こそ、なによりも、アポリアであり続けてきたはずだ、と思うわけです。
明治の政府が、楽観的に、「天皇の子供」という比喩によって、家族における、儒教的な倫理を収奪したつもりになっていたが、そんな簡単なはずがないわけです(ただ、三島由紀夫については、彼は、間違いなく、女が操を国家(天皇)に捧げることも、男が捧げる(ゲイ)ことも、賞賛したでしょうけどね)。
「女の操を国に捧げる」、なんて言い方は、今では、病気か、と心配されるくらいに、ちょっとコワれている。しかし、保守派は、国に命を捧げる国民を要求する。それが女だったら、「命は捧げられても、操は守らせてくれ」じゃ、すっきりしないんでしょうね。
新しい教科書をつくる会も、最近は、フェミニズムへのイチャモンそのものになり、安倍元首相などのバックラッシュが話題になりましたね。どう考えてもこういう問題を、まともに考えていない、ドンカン無視っぷりでしょ。そういえば、従軍慰安婦を「狭義のナントカ」とか言ってましたね。あんなの、日本の保守派のトンデモたち以外の世界中のだれが、理解できたんでしょうかね。要するに、保守派とは、非人権派なのだから(人権より大切なものがあると言いたい人たちですから)、そもそもムチャクチャのトンデモなんでしょうね。
安倍元首相は、憲法改正を目指したが、韓国をうらやましそうにしていましたよね。韓国は、なんといっても、徴兵制を今だに、成人男子に完全強制している国なわけだから(拒否すれば、兵役と同じくらい牢屋にぶちこまれるんだそうだ。人道的兵役拒否も問答無用で認めない国なわけだ)。安倍元首相は、大学の9月入学への変更によって、高校を卒業したら、半年、自衛隊に入れたかったわけだ。
安倍はとにかく、国に命をすすんで捧げる人間に、修身の義務教育復活などによって、国民すべてをしたかった。しかし、通知表によって、進学が決まるのだから、実は安倍にとっては教育さえ自分の支配下にできれば、赤子の手をひねるように簡単だったのだ。
しかしその、「国に命を捧げる」というのは、思考実験としては、そんなナマっちょろい、ロマンティックなものじゃないのだ。ほんとに、「全て」を捧げる、というのはどういうことか(ほとんどサドにとっての、サディズムがなにかを考えるようなものなのかもしれません)。安倍の大好きな吉田松蔭は、長州藩の藩主への諌言によって、国の変革を目指したが、その後の天皇主義者は、吉田松蔭を、ただ天皇のために殉死したと、キリストにとってのパウロのように、殉教者扱いする(まあ、松蔭そのものがあんまりはっきりとした主張のない人ですから)。もちろん、その江戸幕府における臣下の奉行先への諌言は、何度繰りかえそうと受け入れられず、ハラキリを命じられて終ることの方が多いんでしょうが。

戦後史とジェンダー

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