小島毅「儒教のいまと孔子学院」

孔子学院というのは、最近、日本の大学内にできている、教育機関をそう呼んでいる、ということのようだ。つまり、そういったものに孔子という名前を使うことのナイーブさを問題にしている、という主旨のエッセイのようだ。

儒教思想の現代的意義を強調する人たちは、魯迅毛沢東が批判してきたような儒教の礼教体制構築の責任は孔子になく、彼ののちの儒者たちが創り上げてきたものだとして、孔子を弁護する。たしかに、それは歴史的な事実である。孔子が明確に男尊女卑を説いたわけではない(『論語』のなかに「女子と小人は養い難し」という名言があるが、これも上記弁護人たちは男尊女卑的な主張ではないと解釈する)。そうではあるのだが、孔子儒教思想の表看板として通用し、彼の名で三網(親子・君臣・夫婦の上下秩序理念)が説かれてきたことは、これまた否定しようのない事実である。
事実上、漢族が圧倒的に多数を占めるのであるから、「中国文化」が漢字による漢族の伝統文化とほぼ同義語として用いられていることに疑念を持つほうがおかしいのかもしれない。しかし、(西アジアや欧米・アフリカなどとは異なり)儒教を古代以来、漢字という媒体を通して取り入れてきた日本や韓国において、孔子という名が持つ象徴性に、社会全体がもう少し敏感であってほしいと思うのである。彼の名のもとに、過去二千年間、何がなされてきたのか。歴史的過去を知らずして現在・未来を語ることの危うさを強調しておきたい。

三網も、(男女差別は、今では、到底、認められないが、それでも)素朴に聞くと、親はあなたを育ててくれた、かけがえのない存在なんだからちゃんと敬わなくては、とか、上司は人生の先輩であり、自分にいろいろ教えてくれる存在なんだから常に感謝の気持ちを忘れないように、みたいに、礼儀を守ってみんなでやっていこうということで、心掛け程度にGOODに聞こえるかもしれない。しかし、実際の歴史において、その掛け声の元に何が行われてきたのかですね。ものすごい、ガチガチのリゴリズムになっていく。
引用した個所にある、「魯迅毛沢東が批判してきたような儒教の礼教体制構築」を、そんな素朴に考えてはいけない、そういうことでしょう。
実際、今も、保守派論陣の書く、「民主主義は信じられない」などの言説を見てもそうですね。かなり三網五常のリゴリズム的解釈による、つまり、江戸時代に完成して、太平洋戦争敗戦によって、徐々に捨てられてきた、ガチガチの「礼教体制」、これの復権を目指してますね。明らかに。

雑誌「大航海」No.66 2008/03 新書館
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