小谷野敦「白川静は本当に偉いのか」

小谷野敦は、最近は、いろいろ、ポストモダンも含めて、発言している人ですね。
このエッセイは、白川静の文字学は、学者の中では、トンデモとなっているようだ、という話から始まる。しかし、彼らは、表立ってそのことを言わず、こそこそ陰で言っている。
たとえば、谷沢永一の次の発言を紹介している(それにしても、谷沢と加地は犬猿の仲なんだそうだ)。

いったい漢字の語義なんか知ることが出来るものか、と私は思っている。学閥に属さないで苦労に耐えた、とセンチメンタルな同情が集まって、今は恰も白川静の時代であるが、彼の説くところに実証性があるか。『字通』を見ていると、どの漢字の説明にも『説文』が論拠に使われている。あまりにも安直なのでつい笑い出した。(略)『説文』を論拠とする学者はすべて偽物である。
また甲骨文も金文も自らは何も語らない。それにもっともらしく理屈をつけて学者が判読する。要するに独断である。証拠がない。文字学は想像による印象論である。原始的な象形文字は印象批評で決めるだけである。白川静を信用するな。
谷沢永一『紙つぶて 自作自註最新版』)

谷沢の言っていることは、半分は合っている、と小谷野は言う。
だから、白川は、『説文』をいろいろ批判していて、『説文』を無批判にすべて依拠しているわけではないし、白川なりに、文字学の彼なりの「方法論」について、論文にしているので、批判するのなら、それについて言えばいいわけだ。
しかし、小谷野自身は、そもそも文字学など、ほとんど成立しない、ということだ。当然だ。はるか昔の漢字の語源など、分かるわけがない。すべて、なんらなの「解釈」そのもののはずで、それを科学的と言えるレベルにすることは、絶望的に決まってる。

雑誌「大航海」No.63 2007/06 新書館
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