清水則夫「浅見絅斉の神道観と道について」

浅見絅斉といえば、精献遺言ですね(近藤啓吾『精献遺言講義』という本がある。私は、全然、最後まで読めてないが)。
彼は、山崎闇斉の弟子だが、山崎闇斉といえば、最初、仏教をやってたんだけど、朱子学にはまって、最後、日本の神道に傾倒した、と。
朱子学とは、いわば、聖人になるための、手続きを明確に提示されている、そういう理論体系だという。それが日本に入ってきたとき、何が起きていたかというと、中国や朝鮮の科挙の試験のための、受験参考書が、ドバッと一緒に入ってきた、ということなんですね。かなり勉強しやすい状況が整っていた。
闇斉にとって、仏教から朱子学に鞍替えすることは、そういう意味では、次々と新しいものを探しては、流れていくということで、自然だったんでしょうね。闇斉はすぐに日本書紀、日本の神道を「発見」する。朱子学の名分は、中国の聖人君子を発見し礼賛する作業は、日本における義人の発見/想像を強いる、そういう作業に平行しますね。

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

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現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)

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という本があって(以下は紹介記事

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)、ここでは、浅見絅斉の精献遺言がかなり中心的に検討されている。精献遺言でとりあげた人物は、山崎闇斉がすでに注目して発言・礼賛していた人だ、みたいにどこかで書いてあった気がする。ちなみに、この本で、佐藤直方を、徹底して、日本の神道を排斥して、純粋朱子学の立場をとったことが強調されていて、ちょっとおもしろく思った記憶がある。
じゃあ、浅見絅斉は、神道に対してどういう態度だったのかというと、ちょっと分かりにくい。そのあたりについて研究したのが、この論文だ。
でも、結局、よくわかんないんですね。佐藤直方とは違って、神道の完全な排斥をするわけではない。そういう意味では、山崎闇斉を継承している。しかし、谷泰山や、山崎闇斉のような、神道を(日本を中国の上に置くという形に平行して)朱子学の上に置くような口振りをするような、そういうものには批判的である。

絅斉は例によって、日本を夷狄とすることに反対する。そうした「惑」が生じるのは「儒書」があるからだが、「儒書ノ理ハ即天地ノ理」なので、「儒書」や「理」に責任はない。「天地日月」を全ての国が戴くように、自国を主とすべきである。「風土ノ善悪」は無関係で、たとえ風土が悪くとも自国は主であるが、悪は「力ヲ用テ変」えるべきで、それには「天地自然ノ理」に依拠する。学ぶべきは「理」であって「書」ではない。絅斉はこう述べる。「天地日月」は日本と中国を相対化する一方、「天地自然ノ理」はその両者で変わらない。奇妙に感じられるかもしれないが、これが絅斉の論理なのである。

だから、神皇正統記北畠親房や、吉田松蔭のようだ、と言えばいいんでしょうか。国が違えば、何が正統なのかは、その国によって、存在しうる。
しかし、こういう言い方は、普通に考えて変な言い方でしょう。もっと言えば、恣意的。だから、本音なのでしょうか。日本が、インドや中国を支配して、統合したら、日本にしか、歴史はない、とか言い出すんでしょう(それが、始皇帝でしょう)。だから、ユルいんですね、日本は(海外からの侵略に悩んだこともないし)。考えをつきつめないし、中途半端でも、だれも糾弾しない。なんなく、ユルいポジションで死ぬまで悩むことなく、朽ち果ててゆく。
だいたい、日本の歴史は、中国への朝貢外交から始まっているのでしょう。新しい教科書連中に言わせれば、その後は、日本は独自路線を選んだなんて言いたいみたいだけど、小島毅が言っているように、そう考えるべきじゃないでしょうしね。
だから、まともなことを言ってるのは、佐藤直方だけ、なのでしょう。
あと、精献遺言についてなんですけど、もともと、幕末に有名だったみたいなことを言うんだけど、そこが分からなかったんですよね。そうしたら、「精献遺言」について書いた、サイトがあって、

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幕末において、地方からいろいろな人が江戸、東京に来て、まず連れて行かれるのが、おねえちゃんのいる店なんだそうです。彼女たちは、それなりに地方の言葉もしゃべれるので、おもてなしにはいいんだそうだ。それで、そういう場で、よく詩が詠まれていたみたいなんだけど、そういうときに、「精献遺言」の中にあるものが詠まれたようですね。

日本思想史学〈第39号〉

日本思想史学〈第39号〉