李纓「靖国、記憶と忘却の舞台」

最近話題の、映画「靖国」の監督に、映画監督の崔洋一が、インタビューしたもの。
私が思うことも、同じ流れにあると思う。ただ、それは、靖国に限るものでは全然ない。
つまり、国家主義の問題です。これは、二つの側面をもっています。
一つは、プライバシーの問題です。自分の素性をあかして発言する人たちに、常につきまとわる問題です。彼らは、自らの素性が公開されている状態で、さまざまな言明を行います(事実上、多くのステートメントを強いられもするでしょう)。しかし、それは、その人個人への糾弾行動につながります。しかし、考えてもみてください。なぜ、政治的考えを他の人に向かって述べるのに、自分の素性を人に教える必要があるというのか。投票によって、賛否を問うにしても、その理屈の説得性が問われているわけだから、発言者の素性が関係しているわけがないでしょう。
ところが、ここに、国家主義の影を与えると、なぜ、素性を隠すのか、となります。それは、国家に対して、なにか、やましいことを考えているからだろう、となります。国家転覆を考えているから、素性をあかせないのだ、と。ハイデガーも、投票という意志決定の方法を、限りなく、軽蔑しますね。
つまり、プライバシーが、どれだけ、自由にとって、大きな存在であるのか、なのです。これを無視した、自由論は、ヘーゲルがそうであるように、偽(にせ)の自由、なのです。
もう一つは、友敵理論です。もし人が、どこかの国へ、排他的に分類されるなら、それは、カール・シュミットの言う「友敵」の問題へ変えられるわけです。
自らを国家の側に同定する者は、敵を糾弾し続ける。それが、自らの定義、存在意味そのものなわけです。それは、友と形式的に分類されるもの全てを守ることを意味しません。「非国民」というカテゴライズを、これ以上ないくらいに重要視します。つまり、敵とは、利敵行為を行う者をいうのであって、分類上の国民かどうかなど、なんの意味もないわけです。つまり、国家を利するために、日常の全てを捧げない者は、そのこと自体において、敵なのだ。
つまり、このことは、友敵理論のうさんくささを示しているわけです。なぜ、味方と敵なのですか。もっと言えば、自分で、自分の友達などと言うことの反動性。もちろん、友達を否定することに、多くの人が抵抗を感じるであろう。しかし、そもそも、問題は、たんに多くのコミュニケーションをすることで比較的、考えが近い人というところから、内と外の、二つに分類するところのその安易で幼稚なその一歩から、すべては始まっているのでしょう。
右翼の拡声器問題ですが、一つのアクションの方法としては、たとえば、右翼が、拡声器の糾弾行動に走るなら、右翼の行動をまねて、こちらも拡声器の攻撃を右翼勢力に与える、というのがあるでしょう。つまり、全面戦争。おそらく、それによって日本は、住みにくい、イラクのように紛争の絶えない地域になるかもしれません。しかし、あの右翼の拡声器の不快な行動を、国家組織もだれも取締らず、野放しどころか、陰で援助をしている限り、状況の改善はないわけです(内戦のないことが、どうして平和だということなのか、ですよ)。
なぜ、こういうことになるのでしょうか。なさけないのは、なぜ、右翼は、周辺住民に迷惑をかけるような、拡声器攻撃に走るのか。結局、彼らにとっては、もっと物理的暴力による直接制裁をやって当然だと思っている、というのが大前提にある。ぶっ殺したって、なんの罪も感じないのでしょう。でも、それによって、世間から、表現の自由を攻撃されたと糾弾されたくないから、こういうイヤガラセ攻撃に走る。この辺りが、彼らと、警察の手打ちなのだろう。でも、せこいでしょう。もともと、なぜ、右翼なのか、国家なのか、こういう行動に走る連中であればあるほど、その根拠は、絶望的なまでに、なにもないのでしょう。
もう、正義でもなんでもないのかもしれませんね。日本書記って、天皇が周辺地域で平和に暮していた土地の人たちを、かたっぱしからぶっ殺して、その土地を広げて、周りにだれも文句を言う人間がいなくなったと、自慢するようなものでしょう。日本書紀ほど、これほど、正義のかけらもない、暴力一辺倒で、国家権力を掌握したことを、野蛮人まるだしで、喜んでいるだけの、醜い歴史書はない、ってものでしょう。それを、正統とか言ってるんですから、だったらそれは、不正義の状態がずっと続いてきたことだけしか意味しないはずですよね(こういうところでも、浅見絅斉は、結論はダメだけど、その分析は鋭いんですよね)。

まずひとつは、97年に開催された「南京大虐殺60年国際シンポジウム」です。旧日本軍が作った宣伝映画『南京』が上映されていました。南京入場式、国旗掲揚式で日の丸が掲げられ、国歌が流れるというシーンにさしかかったときです。会場に信じられない音が響きわたったんです。一瞬、機関銃の音かと耳を疑うような音でした。熱烈な拍手。信じられなかった。知らないうちに体が震えていました。
会場のなかでは南京裁判で戦犯の判決を下された、ある少尉の娘さんが、父の名誉と誇りのために冤罪を訴えていた。

孫世代が、こうやって簡単に、名誉回復を口走るんですね。やっぱり、人間としての、表の舞台に出てくることに、抑制的になるというような、そういう自制的なものがなくなってきているんだと、本当に思います。
この前の、東条の娘の東京選挙区出馬がいい例ですよね。まったく、票を得られず、惨敗であったが、なんか、なさけなさすぎる。それ以前からのいろいろな発言もそうであるが、いろいろなんと言おうが、結果として、多くの罪のない人が死んだわけでしょう。喪に服してひっそりと生きられないものなのでしょうか。
最後に、稲田朋美だが、このババア、言ってることは、完全に、小者(こもの)でしょ。加藤議員の実家が放火されたときも、一人、嘲笑的な言動で、フキアガッていたが(ほんと、キョクウ弁護士増えたな)。むしろ、自民党の女性政治家が、完全に、極右集団そのものになっている、この末期的な状況ですね。ほんとに、自民党ってのは、小泉チルドレンの影で、こんなトンデモばっかりになってしまってるんですね。恐い恐い(民主党も、かなり極右の勢力があるようですけどね)。
7日の、NEWS23 で、右翼の上映中止を求める街宣活動は、二つの団体があったようだが、両方とも小規模だったとあった。あと、その街宣活動をした、一方の団体の21歳の青年がカメラの前で、インタビューにたんたんと答えていた。この上映中止にいたる反応の早さに意外な感じをもったということを言っていたが、今回の上映中止が一瞬で決まったことには、やはり、政治家と文化庁の動きが大きいと考えるべきだろう(それにしても、あいかわらず、稲田は口もとしまらんな「だって言論弾圧の意図がないんですからね」ヘラヘラ、ニヤニヤ、ケッケッケッ)。
27日ですけど、だいぶ、この問題も、沈静化してきてるんじゃないですかね。稲田は大江健三郎との裁判で破れて自分の存在をアピールしたかったのでしょう。有村治子まで出てきましたが、結局、政治家が言論の自由を抑圧する行動でハネッカエリを演じることの問題が今回の騒動の本質でしょう。最近の自民党のWEB規制もそうだけど、よく言論の自由の弾圧を保守派は夢見ますが、やってみろよ。『1984年』のような統制国家にしてみろよ。言論の自由が、どれだけ近代社会システムにとって、本質的なものかが分かるよ。

論座 2008年 05月号 [雑誌]

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