山下範久『世界システム論で読む日本』

世界システム論とは、ウォーラーステインの提唱する理論で、まあ、それを使って、日本が、なぜ近代化を実現できたのかの分析を行うというのが、大きな主題のようだ。
世界=帝国から、世界=経済にかわる、まあ、昔の世界が帝国で分割されていた時代においては、世界とはその帝国の内部で閉じていたが、コロンブスアメリカ発見などをとおして、ひとつになる。その過程で、ネーションがでてくるのだが。
そこで、日本においては、ペリー以前から、その普遍が外(中国)にあるという感覚から、日本国そのもので、普遍が閉じている(ネーション)という考えに、少しずつ思想としても、主張されていく過程について、記述されている。
山崎闇斎から、本居宣長平田篤胤、と続く国学の変化において見るわけだ。
山崎闇斎孔子孟子が日本に攻めてきたら、戦う、という発言があって、そこで、本居宣長の、言葉ですね。

たた此国の人は太古の霊奇なる伝説をそたふるに信し居らんぞ直かるべきといへるも又、なまさかしら心にて、実に信ずべき事をえしらざるひがごと也.......もし実に信ずべくは、天地は一枚なれば、此国の人のみならず、万国の人みな信ずべきこと也、然るをただ此国の人はといへる、これ実には信ずることなかれ、ただ信するかほして居よといはぬばかり也、いかてか是を直しとはいはむ(『呵刈葭』)

上田秋成との論争だが、つまり、記紀神話を信じるべきなのは日本人だけでいいという秋成に対して、宣長は、その普遍性から、世界中の人が、記紀神話を信じなければならない、というのだ(こうみると、吉田松蔭はまだ、ここまで行ってないですね)。
ここから、平田篤胤になると、完全に日本で閉じるんですね。

篤胤は、これをさらに推し進めて、万国の神話は、唯一の根源的な神話である記紀神話に還元されると主張した。篤胤は、もともと皇国の神が創った他国の文化の産物なのであるから、「外国人どものうめきつすめきつして考へものせる」文物を、日本人は「君たる人」が「高枕して手をこまねき居」りながら、受け取ってやればよいのだとまで述べている。

だから、外の文物も内物化され、他者との緊張と受け取られず、だから、ネーション意識であり、ナショナリズムですね。だから、平田篤胤が日本のナショナリズムを完成させたことになる、というわけなのかな。
しかしねぇ。江戸時代の最初の頃、読まれていたのは、中国の文献であり、朱子学科挙の教科書、参考書だったり、でしょう。なにか、上の段階というのは、ちょうど、日本国内での受容の過程に対応しますね。多くの中国の文献がカナ振りや、返り点、解説文のつけられた日本国内産の文献が多く出てきたところで、宣長なんて、あまのじゃくに言い始めるわけだ。すると、篤胤になると、その態度自体が常識だと。
他方で、後期水戸学派にとって、篤胤は、トンデモ扱いですし、明治政府の政策は、今度こそ、朱子学政治だったと言えるような面もあるわけだ。
そういった流れで、廃仏毀釈をした明治からの官僚や、平泉澄や、日本軍、こういったもののウルトラも、篤胤のベースとみえなくもないかな、とは思うんですけどね。
また、最近の保守政治家の思想を比較しても、篤胤のトンデモの面を受け継いでいるんじゃないですかね。

世界システム論で読む日本 (講談社選書メチエ)

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