ルソー『人間不平等起源論』

前にも紹介したが、

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

を、大変、興味深く読んだ。第二部の、スピノザの分析もおもしろいのだが、ここでは「第三部 世界宗教をめぐって」の前半ですね。はっきり言って、こういった分析を、ほかで見たことがない(確かに、たんにパッチワークしてるだけの部分もあるんだろうけど)。また、この部分について、いろいろ分析した論文も見たことがないんですよね。
まず、フロイトの「モーゼと一神教」の分析から始まります。そこで、ユダヤ教における本質的なものとして、偶像崇拝の禁止にあることを指摘するのと同時に、フロイトの行う精神分析そのものが、そういったモーゼの意志を継ぐような運動としてあるのではないか、と指摘する。
そして、最後は、フロイトの定義する、ナルシシズム神経症についての、考察である。フロイトの提唱する精神分析において、そもそもの基本的な関係とは、感情転移の関係であるという。医者は自分のいろいろな質問に対して患者がさまざまに見せる反応によって、診断し治療をしていくのだが、ナルシシズム神経症の患者は、そもそも反応を返してこない。そもそもの自理論の前提が崩れるのだ。
これについては、最終的には、明確なこの解答は書かれていない。むしろ、だれもが、それぞれの側面において、ある程度、この「境界設定」(ナルシシズム神経症的)は不可避なのであって、それを認めるところからしか始まらない、と(フロイトの引いたこの線が重要であり、大きくその後の哲学に影響を与えた、と)。
それでやっとルソーの話なんですが、フロイト精神分析が何をやっているのかの分析に入る前の所で、考察されます。
柄谷さんは、人間が本来、共同体的な存在ではないことを最初に主張したのはルソーじゃないか、と言うんですね。「自然人」です。

だから、あらゆる学術書はみな、われわれに人間をできあがった姿で見せるから捨ててしまい、人間の魂の最初のもっとも単純な働きを瞑想するとき、理性に先立つ二つの原理が認められるように思われる。一つはわれわれの安楽と自己保存に対して強い感心を抱かせ、もう一つは、感情を持ったあらゆる存在、主にわれわれの同類が死んだり苦しんだりするのを見ることに対して自然な嫌悪感をかき立てるのである。われわれの精神がこの二つの原理を競合させたり組み合わせたりできることによって、社会性の原理を導入する必然性もなしで、自然権やあらゆる規則が生じてくるように私には思われる。のちにこの規則は、理性が次々に発展して自然を押し殺すにいたったときに、別の根拠によって確立せざるをえないのである。
このようにして、哲学者を人間にするまえに人間を哲学者にする必要はなく、人間の他人に対する義務は、遅れて現われる知恵の教訓によってのみ命ぜられているのではないし、同情という内面の衝動にさからわないかぎり、自己保存がかかわり、自分を優先せざるをえない正当な場合を除いては、ほかの人間や、感情のあるどんな存在にもけっして害を与えないであろう。この方法によって、また、自然法に動物が関与しているかどうかというむかしからの論争にも決着がつくのである。なぜなら、動物は知識の光も自由もないので、この法を法として認識できないのは明らかであるが、動物が与えられている感受性によって、われわれの本性となんらかの点でかかわりがあるので、動物もまた自然権にかかわらざるをえず、人間は動物に対してなんらかの種類の義務を負っていると、判断することになるからである。じっさい、私が同胞にいかなる害も加えてならないのであれば、それは、同胞が理性を持った存在であるというよりも、感受性を持った存在であると思われるからで、この性質は動物にも人間にも共通なものであり、少なくとも前者に対して、後者によって無益に虐待されてはならないという権利を与えているに違いないのである。
(ルソー『人間不平等起源論』訳・原好男)

また、ロックやホッブスと全然違いますね。
柄谷さんは、だから、ホッブスとの違いは、自己保存的なエゴイズムだけでなく、動物をふくむ他の感性的存在への同情=共苦を見出す点だそうで、ルソーにとっての自然状態は、それをのりこえて共同体を形成しなければならない理由はない、だそうだ。

この野蛮の時代は黄金時代であった。というのは人びとが団結していたからではなくて、離れていたからである。おのおのが万物の主人公だと思っていたという。そうかもしれない。しかし誰も自分の手のとどくものしか知らなかったし、欲しがらなかった。彼の欲求は彼をその同胞に近づけないで、遠ざるのであった。人びとは出会えば、お互いに相手を攻撃したといってもよい。しかし彼等はめったに出会いはしなかった。いたるところ戦争状態支配していたが、地上はすべて平和であった。
(ルソー『言語起源論』訳・小林善彦)

孤立と自足ですね。
柄谷さんは、そこでは、他者の欲望、あるいは他者に媒介された欲望(ジラール)はない、基本的に、彼らは他人に無関心だ、というんですね。
また、中井久夫『分裂症と人類』の議論と平行して指摘をしているところも、おもしろいですね。

地上に永遠の春を想定してみるがよい。いたるところに水と家畜と牧場を想定してみるがよい。自然の手から生れた人間が、そういったすべてのものの中にひとたび散らばったと想定してみるがよい。その人間が彼等の原初の自由を断念し、彼等の自然の無為にきわめてふさわしい孤立した牧歌的な生活を棄てて、社会状態とは切り離すことのできない隷属や労働や悲惨を、必要もないのに背負いこんだのはどうしてなのか、わたしには想像がつかない。

  • どの程度まで人間が本来怠惰なのかは考えもつかないことである。人間が生きているのは、ただ眠り、無為に生き、じっとしたままでいるためであるかのようだ。というのは人間は、餓死を避けようとして必要な運動をするために、かろうじて決心をつけられるからである。未開人たちが彼等の境遇を好み続けているのは、なによりもこの心地よい無為のためである。人間を不安にし、用心深くし、活動的にする情念は、社会の中ではじめて生れる。なにもしないということは、自己保存の情念についで、人間の最初の、しかももっとも強い情念である。よく眺めていれば、われわれの間にあってさえも、おのおのが働くのは休息にたどりつくためであり、さらにわれわれを勤勉にしているのは、怠惰なのであるということがわかるであろう。

(ルソー『言語起源論』訳・小林善彦)

それで、柄谷さんは、こういった自然人は、スピノザのいう「国家」に対応するんだ、みたいに言ってますね。
どうでもいいんだけど、引用個所の、『人間不平等起源論』『言語起源論』で、訳者が違うんですよね。お互いそれぞれ訳しているみたいなんだけど。

人間不平等起源論 言語起源論 ルソー選集6

人間不平等起源論 言語起源論 ルソー選集6

言語起源論 (1970年) (古典文庫)

言語起源論 (1970年) (古典文庫)