保阪正康『「靖国」という悩み』

鎮霊社について、ちょっと、まったく無知だったので、読んだときは、びっくりしましたね。

秦氏は「(筑波は)帰国直後に鎮霊社の建立を言い出した。不特定多数の祭神を祀る慣例は神道にはないので異論も出たが、宮司の強い意向で実現したという」と書いている。

鎮霊社について、靖国神社編の『やすくにの祈り』(1999年)には次のように書いてあるという。この内容そのものはきわめて興味深いのだ。
「昭和40年7月13日、嘉永6年以降、戦争・事変に関係して戦没し、本殿に祀られざる日本人の御霊(一座)と、1853年以降、戦争・事変に関係した世界各国すべての戦没者の御霊(一座)を祀る鎮霊社を、元宮南側に建立した。この中には....白虎隊の少年隊員や....西郷隆盛らも含まれる。また諸外国の人々では湾岸戦争や最近のヨーロッパ・ユーゴのコソボ自治州での紛争の犠牲者が含まれる。鎮霊社は40年5月26日に地鎮祭が行なわれ、7月13日に鎮座祭を行った。以後、例祭として恒例となる」

もしかしたら、ここにこそ、本当の可能性の中心があるのかもしれません(別に礼賛するつもりは少しもないですけど)。私は、多少でも昭和天皇を覚えている世代として(そしてあの、崩御の頃の、異様な雰囲気)、昭和天皇を礼賛する気持ちにはなりませんが、彼は彼なりに執念をもって、戦後、戦っていたんだと(どういった勢力と戦っていたかは分かりますね。一見、真っ先に天皇にぬかづく態度を示しながら、「実際の目の前にいるその」天皇を徹底して侮蔑し続けた勢力。彼らは天皇に自分たちの悪逆の限りの所業の事実を隠し続けながら、一切の責任を引き受けることなく、世界中でもだえ苦しみ、戦火の中、命を落し亡くなっていった多くの市井の人びとの恨みを天皇その人だけに押し付け続けた勢力)。そしてこの鎮霊社を建てたこと、このことこそが、彼の彼なりの戦争責任への責任のとりかただったのかもしれませんね。戦後、世界中の戦争で亡くなった死者の怨念を一身に受けながら、なんとかここまでやらなければ、死んでも死にきれなかったのかもしれません。