萱野稔人「なぜ私はサヨクなのか」

ここでは、萱野さんが、「自分はなぜ右翼でなく左翼なのか」を「自分」でイッショーケンメー説明している。しかし、そっちの方は、なにを言っているのか、さっぱり分からない。もっと言えば、結局、なにが右翼でなにが左翼だと、この人が考えているのか、あまりにユルくて、聞くに耐えない夜郎自大な議論に終始していると思う(このレベルの雑誌のエッセーならこれでいいと、たかをくくってんでしょ)。
私も正直、国家廃棄・資本主義廃棄、を実現して、さらに、どのように人間の自由を担保するかなんて、なんのイメージもない。だから、これは、ある種の、理念として、ユートピアとして、言っているということでしょう。
そういった面でこの議論を見ると、ただ一つ、これを言いたいんだろうな、と思われる部分がある。

ナショナリズムは、排除や国家暴力を正当化する原理となる一方で、民衆が国家の決定プロセスに参加し、国家の権力をコントロールする可能性をひらいてきた。「国民のため」ということを国家がつねに気にかけて行動するようになったのはそのためだ。国家がみずからの暴力によって民衆と対峙する、という図式が近代になって消えていったのはナショナリズムをつうじてである。いいかえるなら、われわれはナショナリズムを手にすることで、国家に対する全面的な服従か、それとも死をかけた反抗か、という図式から抜け出すことができるようになったのだ。

つまり、これは、この人のナショナリズムの定義なのだと思う。「民衆が国家の決定プロセスに参加し、国家の権力をコントロールする可能性をひらいてきた」、これを実現してきたのは、「ナショナリズム」なのだ、というのが、彼の仮説なのだ。
でも、もしそうであるなら、民族主義自国民中心主義を、ナショナリズムの不可避の特性として、定義する意味は薄れていないか。なぜなら、問題は、「国家権力のコントロール」だからだ。それが問題なら、それが実現される制度とは何かでしょう。事実、日本国憲法は、かなり、国際連盟的、自分たちの社会の安定とともに、それが他国の平和の実現とともに進むことを目指す内容になっている(そして、もっとも安倍元首相が、かみついたのも、全文のこの部分ですよね)。
だから、こういう考えの延長でいうなら、もう少し、国際組織の可能性や、地方自治の可能性、民族自決による、細分化された小国家の独立、EUのような、国家連合的組織、こういう可能性を考えることが、多少、生産的な話ということじゃないですかね。
単に、暴力、国家、ナショナリズム、資本主義、この4点セット(柄谷さんの言うボロネオの輪ですね)をいろいろ並べて、誰もこの輪から抜けられない、みたいな話をえんえんされても、ホッブスリバイアサンや、最近のネオコンの奴らが言っていることと同じですよね。

ロスジェネ 創刊号

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