有害サイト対策法案

どうも、この法律は通りそうな様子ですね。今回は、サイトが有害かどうかの基準の策定や判定は、民間の第三者機関の自主的な取り組みに委ねるそうだ。
しかし、自民党では、第三者機関への国の関与を強めるべきだ、という動きがあるという(まあ、高市早苗と、そのとりまきだろうが)。
そもそも国家には、国民の言論の自由を抑圧したいという意志がある、そういう存在だと考えるべきであろう。そうすることで、その国家のホメオスタシスを乱す存在を駆逐できるからだ。
そして国家主義者は敏感にそういう国家の欲望を察知して、柔順にその欲望の手先となって働く。
国家はあらゆる手段、あらゆる機会をとらえて、この牙城を切り崩すため、あらゆる手練手管を使ってくるであろう。
入口は、どんなに小さくてもいいのだ。とにかく、突破口をつくる。そして、なんでもいいから、一個、できちゃえば、あとは、そんなのいくらでも広げられる、というわけだ(今回の年金天引きにしても、派遣法にしても)。
今回の、有害サイト法でも、少しでも、国家による介入が合法化されることが彼ら、国家主義者にとって、重要なのだ。理屈など、なんでも立つ。
国民の人権が蹂躙される可能性があるんだから、国家が国民の言論を監視して、あやまった危険分子の危険な発言を一早く検出して、法の網にかけることが、いかに重要かを力説するでしょう。
しかし、この一見、理路整然とした発言には、ある落とし穴がある。
言論の自由の問題である。なぜ、この権利は、これほど重要とされているのか。これほど、ほかの権利を押えてまで、強力なものとされているか、である。
もし、言論を抑圧することが正当化されるなら、その人は、思っていることを言えない、ということである。彼のもっている思想を語ることができないということであり、信条を表明できないということであり、信仰の表明もできないということであろう。
しかし、国家はこれがやりたいのだ。なぜなら、国家にとって、価値あるものとは決まっているから。つまり、国家自身こそ価値だから。だから、国家主義者にとって、靖国、国家に殉じた人こそ、なによりの価値そのものであり、それ以外の個人の信念を徹底的に軽蔑し、意味のないものに貶めることこそ、あらゆることに先んじて、目指されるのだ。
しかし、なぜ、国家というものは、これほど、国民にとって、特殊な組織なのであろうか。
それは、なぜ、現代になってまで、自由に所属する国を選べないのか、と考えるといいのかもしれない。もっと言えば、なぜ、多くの国の国民に自分はなれないのか。また、どこにも所属しないという選択肢だってありうるはずだ。
また、なぜ、簡単に、ある地域が、独立国になると宣言できないのか。こう問うとき、そもそも、国家というのは、なにか、おかしい、と思えてくる。
ようするに、私たちが、「私的所有」だと思っているもの、これらすべてが、全然、「私的」じゃないのだ。それは、国家のものなのだ。国家が、使うことを許しているだけなのだ。
だから、個人の土地であるはずなのに、じゃあ、その土地を国家にしようとすると、もともと属している国家が弾圧をしてくる。
国家が存在する限り、国家と国民の言論の自由を守ろうとする闘争は、国民の完全な奴隷化が実現するまで、絶対に終らない。そして、国民は、この延々と続き、力を浪費させられる闘争に、多くの人生のパワーを使わされて、空しい徒労感をもちながら、老いて死んでいくのだ。